訃報を聞いたとき誰もが「エッ、誰が?どうして?」と、隣組の一軒一軒にお手伝いの連絡に伺っても話がなかなか進まない。起こったことがあまりに突然であり、起こるべき順序ではないのですんなりとは受け入れられないのだろう。この田舎町では老人が多くお葬式の連絡も少なくはないけれど、突然寿命は年じゃないと、死というものを改めて目の前に突きつけられたような感じだった。
ご主人を亡くされた奥さんにお悔やみのご挨拶に行っても、憔悴されているお姿に言葉がない。お葬式で挨拶をされている間、台所は静まりかえって、誰もが奥さんに心を合わせて、ただ悲しみを共有するだけ。
お葬式は助け合い。隣組のみんなで集まってすべてを取り仕切って送る。近所ではあってもそんなにいつも出会っているわけではないので、こんな時は交わりの場ともなる。けれども、だんだん昔のように必ず出席とは行かなくなっている。仕事が休めない人もあり、老齢で手伝えない人もある。
隣組の役を、年を取って果たせなくなくなってはいけないので、今の内にできるように順序を変えて欲しいと話す人が居られた。「そんなに先々を心配しなくてもいいんじゃない。」と言ってあげたけれど、いつまでこのような形で助け合うことができるのか・・・きっと出来なくなる時が来ると思う。こんな形を支えるにはいろいろと余裕がないと困難だと思うから。
無事に二日間のお手伝いを終えて、主人と小さな缶ビールを分け合いながらほっと一息吐いた。「お天気が守られて良かったね」なんて話しつつも、何時か来る自分たちの時のことも思ってはいるが、どのように時が移ろうとも、すべての恐れや思い煩いをイエス様にお委ねして、主に身を避けることの出来る幸いの中でくつろぐ。
「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。
しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」Ⅰペテロ1:24、25
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