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石ころ

十字架の上で

サタンの罠に落ちた人間に、神の御子が人となって来て下さり、神様の目的を成就して、いのちを取り戻して下さったイエスさまの十字架。限界までの苦痛を忍ばれ、それこそ大事を成して遂げて下さった。
そのような時に、

ルカの福音書23章39~43
十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。
ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

この箇所の内容はあまりにも小事。このような大事の時に、散々悪事を働いたひとりの悪人の救いがわざわざ記録されている。
しかし、イエスさまは真っ正面から彼の言葉を受け入れてくださり、救いの約束を語られた。
この時のイエスさまは、究極の十字架刑が執行されている時で、心も裂ける悲しみと、激しい痛みの中にあったのだ。


ヨハネの福音書19章25~27
イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。
イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。
それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。

「女の方」という呼びかには思い出す箇所がある。
「イエスは母に言われた。『あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。』」(ヨハネ2:4)

この時は冷たい言葉に聞こえたけれど、十字架の上でイエスさまが見せられた心遣いは、愛のすべてを語っている。人となられた神は人の情までご存じで、最後まで母としてマリヤを気遣っておられた。

人は大事の前の小事と切り捨てたり、あれもこれもすべてが叶うなんてありえないと自らあきらめてしまうことがある。
祈りさえも、「このような卑近なことを・・」とか、「そんなことはとても、イエスさまには願えない。」などと決めつけてしまうことがある。

けれども、強盗の願いさえも無条件で聞き入れて下さるイエスさまなら、どうして祈りに価しない事柄などあろうかと・・、
人は事の大小を自分で測って、重要だとか些細なことだとか言うけれど、イエスさまには、私たちのことはすべてのすべてが大事なのじゃないかと・・
恐れずに、あきらめずに、主とコミュニケーションをしっかりと取りなさいと言われているように思った。
ゲッセマネのイエスさまを心に覚えて・・

「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(ルカ22:42)

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