そのころ、アビメレクとその軍の長ピコルがアブラハムに言った。「あなたが何をしても、神はあなたとともにおられます。(22)
証は神ご自身がなさることである。クリスチャンも神の証を現わすために、主が置かれた場所で生きている。
それで今、ここで神によって私に誓ってください。私と私の子孫を裏切らないと。そして、私があなたに示した誠意にふさわしく、私にも、またあなたが寄留しているこの土地に対しても、誠意を示してください。」
アブラハムは「私は誓います」と言った。(24)
「神によって私に誓ってください」と言う要求に対して、アブラハムはことの是非を神に尋ねなかった。これは彼が即答することではなく、聴いたみことばを語るべきことである。
アビメレクの方から平和を求めて訪ねて来たということは、神がアブラハムを上位に立てておられるからである。しかし、彼の対応はアビメレクを恐れて、返答を待たせる自由さえ持たない者のようであった。
それから、アブラハムは、アビメレクのしもべたちが奪い取った井戸のことで、アビメレクに抗議した。(25)
アビメレクに対してわずかな抗議をしてみせたアブラハム。そんなことは大したことではないのだ。
なぜなら、神は必要なら幾らでも井戸を備えてくださる。そもそも、アビメレクが来るまで放っておいたことである。
神にあって生きる者は、すべての支配を神に委ねる者であり、人を恐れて支配される者ではない。
みことばに拠らずに人に誓いを立てることで、平和を得ようとしてはならない。そんな遣り繰りの中で生きてはならない。それは世の罠である。
キリスト者の平和はみことばに在り、人の言葉ではない。
アビメレクはアブラハムに言った。「今、あなたが別にしたこの七匹の雌の子羊は、何のためのものですか。」
アブラハムは言った。「私がこの井戸を掘ったという証拠になるように、七匹の雌の子羊を私の手から受け取ってください。」(29~30)
アブラハムは重々しく井戸の誓いのための儀式をしている。アビメレクの「何のためのものですか」という言葉は全くその通りで、不信者に儀式を見せても何の意味も持たない。
不信者に対しても力を持つのはみことばである。意味が分かろうと分からなかろうと、みことばが神であり、みことばが在る所に神ご自身が働かれるからである。