カペナウムに着いた。イエスは、家に入った後、弟子たちに質問された。「道で何を論じ合っていたのですか。」(マルコ9:33)
彼らはイエスさまに話せなかった。光に曝されないものは、火で焼かれることもなく留まる。十字架を理解することが出来ず、尋ねることさえ恐れる弟子たちは、仲間という世界で、誰が一番偉いかを論じ合っていた。彼らはみことばに耳を塞ぎ、仲間同士で小競り合いをしていた。
イエスはおすわりになり、十二弟子を呼んで、言われた。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」(マルコ9:35)
イエスさまは栄光の神の御座から下って、虫けらにも等しい者に仕えてくださった。
幼子のように何の働きもない者も、仲間ではないけれど神のわざを行う者も、弟子に一杯の水を飲ませてくれる者、神に逆らわないだけでも顧みると教えられた。
ヨハネがイエスに言った。「先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。」(マルコ9:38)
主の救いの基準はどこまでも低い。だから私たちは救われたのである。隠れた主に在る者を仲間に受け入れて、救いの仲間を増して行く事こそ、仕えてくださったイエスさまに対する捧げものである。
仲間かどうかを決めるのは弟子ではなく主である。人をはじき出す仲間意識を厳しくいさめられる。それはその人に、永遠の死をもたらせることであり、その人にある十字架を無にすることでもあるから。
もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片手でいのちに入るほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです。
もし、あなたの足があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片足でいのちに入るほうが、両足そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。
もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国に入るほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。(マルコ9:43~47)
此処では、イエスさまが弟子向かって「ゲヘナに投げ込まれる」という表現をされるほど強い戒めである。
塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。(マルコ9:50)
今彼らの狭い特権意識を焼き尽くして、塩けを保つように言われる。小さな命を神のまなざしで見つけて掬い取ることができるのは、肉から出るものを焼き尽くした塩けの聖さによることである。
弟子は、ただ、いのちへの熱心、聖さへの渇きによって結ばれ、キリストを頭として地で和合して暮らす者である。そこにあるのが御国の前味である。
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