神が、アブラハムに割礼を命じられたとき、彼は時を置かずにすぐに従った。
ひとり子のイサクを捧げよと命じられたときも、翌朝イサクを従えて、捧げる山に登って行った。
アブラハムは、神が顔と顔を合わせて交わることを許された人である。
彼は親しく神に質問すること、交渉することさえ許されていたが、彼自身に命じられたことは黙って従い、家の者にも従わせた。
アブラハムが躊躇することは、神の救いの契約を損ないかねないことであった。
彼がイサクを説得したとは書かれていない。イサクの信仰を、神に信頼してのことであろう。イサクは神によって、平安の中で父の振り上げる刃物を見たのだ。
アブラハムの信仰によって、イサクは神に捧げられた者として、神の祝福の中で生きた。
アブラハムはいつも恐れを持って、神の御顔の色を見ていたのだ。
ソドムが滅ぼされるときに神と交渉をすることができたのは、神の御顔の憂いを見分けたからである。神が喜んではおられないことを悟って執り成したのである。
私たちも聖霊によって神の御顔を仰ぎ見て祈る。神を恐れる者は、神の御顔が曇ることを恐れる。
見つめている御顔の色によって、即座にみこころを行うようになるのだ。
そこには人の事情や経験や知識が入り込む隙は無い。それが霊の交わりである。だからその祈りは単純であり明確である。
人の顔色を見ている者は、正義や真実を問うことよりも、人にほめられることを優先する。顔色を見るのは恐れに縛られているからである。
神を恐れる者は神の御顔を見てすべてを悟り、神の喜びのために真っ直ぐに従う。その神の御顔の輝きを見てしまうと、ますます素早く応答する者とされて行くのである。アブラハムのように大胆に・・。人が何を恐れるかは行動となって現れる。
みこころを求める祈りの時は、世の事情や状況を見ながらではなく、御顔の輝きだけを求めて祈るのである。聖霊によって御顔の曇りを悟るなら、即座に向きを変えることができるのである。
行動すべき時も、静まって待つことも、御顔の色から霊は悟ることが出来る。それは神は霊だからである。だから、霊は四六時中寝ても覚めても主の御前に、祈りの中にいるのだ。
いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
御霊を消してはいけません。(Ⅰテサロニケ5:16~19)