その二人の御使いは、夕暮れにソドムに着いた。ロトはソドムの門のところに座っていた。ロトは彼らを見ると、立ち上がって彼らを迎え、顔を地に付けて伏し拝んだ。(1)
ロトには御使いが分かったのだ。自宅に強いて招き入れご馳走を振舞った。夜になると町中の男たちが旅人を襲おうとやって来た。
「兄弟たちよ、どうか悪いことはしないでください。
お願いですから。私には、まだ男を知らない娘が二人います。娘たちをあなたがたのところに連れて来ますから、好きなようにしてください。けれども、あの人たちには何もしないでください。あの人たちは、私の屋根の下に身を寄せたのですから。」(7~8)
ロトは二人の娘をいけにえとして、御使いを守ろうとした。彼はこの町の恐ろしさをよく知っていたのだ。
そのあまりにも酷い言葉に気分が悪くなるが、ソドムでの彼の生活が、あらゆる遣り繰りの連続であったことを現わしている。神を知っているロトがそこで何を守っていたのだろう。
ロトたちを守った御使いは、ソドムを滅ぼすために主に遣わされたことを伝えた。
夜が明けるころ、御使いたちはロトをせき立てて言った。「さあ立って、あなたの妻と、ここにいる二人の娘を連れて行きなさい。そうでないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまいます。」(15)
ロトは家族に状況を伝えたが、即座に家族全員を引っ張って家を出ることはなく、夜明けごろになって御使いに急き立てられるまでぐずぐずしている。
アブラハムは主に命じられた時は、即座に自分で従い家族も従わせた。主のみこころには反射的に反応しなければならない。何かに心を奪われている間に、人の命が失われて行くからである。
携挙の時、このことによってふるい落とされる人がなければ良いのだが・・。「イエスさまが一番」という単純なことではある。
彼はためらっていた。するとその人たちは、彼の手と彼の妻の手と、二人の娘の手をつかんだ。これは、彼に対する主のあわれみによることである。その人たちは彼を連れ出し、町の外で一息つかせた。
彼らを外に連れ出したとき、その一人が言った。「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこにも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。そうでないと滅ぼされてしまうから。」(16~17)
神はそのようなロトをあくまでも救い出されるのは、アブラハムが従順によって築いてきた神との関係によることであった。
ロトがソドムの汚れをよく知っておりながら脱出せず、呪われた町に留まっていたことで、救われたのは彼と未婚の二人の娘だけになってしまった。それは神のみこころではない。
神の喜ばれるものはいけにえではなく、アブラハムの従順である。ロトは逃げる間も、まだ自分の意見を言って交渉していた。
ロトの信仰とアブラハムの信仰の違いは、家族の祝福の上に現れている。アブラハムは神の言葉に即座に従って関係を築いたのである。ロトの救いはただ、アブラハムと神さまの関係によることであった。
わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。(ホセ6:6)
世の栄誉や富、勝利を持って祝福を現わすことが神の目的ではなく、それらはすべて過ぎ去るものだからである。神に聴きつつ日々を共に歩み、従順による信頼の中で永遠の関係に導くことこそ神の目的である。
不信仰や汚れを嫌悪して、大切なものを捨てて主に逃げ込むなら、その捨ててきたものは神に喜ばれる捧げものである。
神が低地の町々を滅ぼしたとき、神はアブラハムを覚えておられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼしたとき、神はロトをその滅びの中から逃れるようにされた。(29)
私たちが大切な者を守ることが出来るのは、私たち自身の神との関係である。神はご自身を愛する者を、悲しませたくないと思ってくださるからである。それは、十字架のイエスにおいて、深い悲しみをご存じだからである。