石ころ

労苦に添えて下さるもの(伝道8章)

 

だから私は快楽を賛美する。日の下では、食べて飲んで楽しむよりほかに、人にとっての幸いはない。これは、神が日の下で人に与える一生の間に、その労苦に添えてくださるものだ。(15)

 

ソロモンは飾らずに真実を語る。確かに快楽も神が備えてくださった祝福の一つである。神はそれを日の下にあるすべての人に与えてくださっている。ただ、神を知らない時は直ぐに消えて行く肉の満足である。

 

貧しい人は一切れのパンに快楽を感じ、豊かな人も食べきれないご馳走に少しは快楽を感じだろう。神が備えられた快楽は労苦に添えられてある。このときのソロモンの労苦は何だったのだろう。

 

私が昼も夜も眠らずに知恵を知り、地上で行われる人の営みを見ようと心に決めたとき、
すべては神のみわざであることが分かった。人は日の下で行われるみわざを見極めることはできない。人は労苦して探し求めても、見出すことはない。知恵のある者が知っていると思っても、見極めることはできない。(16~17)

 

先立つのは労苦ゆえに、人は快楽のみを追求して労苦から切り離したものを求める。これは神の備えではないゆえに罪である。また、労苦を追及しても快楽の極みを得ることもないのは、その労苦は神から出たことではないからである。

 

 まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。
ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。マタイ6:33~34)

 

此処にある労苦は主のみこころにかなったものであり、主の備えてくださった快楽は、家族で感謝のうちに味わうものである。

神の国と神の義を持っておられるのはキリストである。キリストだけがみこころに叶う神の計画を知っておられる。キリスト者のうちにおられる聖霊は、キリストのことばを語り続けて導き、各々の労苦の糧を得させてくださる。

 

昼には汗を流して労苦し、夕べには感謝の祈りをもって食卓や、家族の交わりに寛いで、今日の快楽をたまわるのである。

聖霊は、主の愛の備えを知るための労苦を導いてくださる。聖霊が解き明かすみことばには、永遠に渇くことのなく魂を満たす穏やかな快楽がある。

 

私たちを心配していてくださる主の真実は、日々の食卓にあり、何気ない交わりにあり、体や心の癒やしのあって、生きるための折々の備えにある。
またキリストの平安もあり、永遠のいのちの望みに満ちて、主に見える日を待ち望むのである。


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