石ころ

罰に代えてたまわる祝福①(申命記31章)

 

主は、主が根絶やしにした、アモリ人の王シホンとオグおよび彼らの国に対して行ったように、彼らに対しても行われる。
主は彼らをあなたがたに渡される。あなたがたは、私が命じたすべての命令どおり、彼らに行わなければならない。(4~5)

 

神の命令通りに行うときは、神の義によって働くのである。神は生かす者と滅びる者を分ける。主を恐れることを学び、主に聴き従て救いを受けなければならない。神が分けるのは滅ぼさずに生かすためである。

 

それには愛する御子イエスの血が支払われることになる。イエスの血はすべての人の罪の代価として、唯一罪の無い人の血が支払われたのである。滅びる者はそのキリストを拒絶しているのである。

 

主の命令に聴き従って生きるために、モーセは主がヨシュアに告げられたことを語る。この言葉を聴いた民は、主に従うようにヨシュアに従って約束の地に入るのである。

 

選ばれたヨシュアは未知に向かって先立ち、主に聴いたとおりに進むなら主が道を備えていてくださる。
リーダーは日々主をに聴き従って、モーセのように自分の経験によって石を打つ失敗をせず、主に選ばれた証をたてて前進するなら民は神の守りの中に在って安全である。

 

主に従順する者を守り敵と戦ってくださる。神のものの命は神が心配される。主が敵と戦って勝利を与えてくださるのは、私たちの計画ではなく、主に信頼している者のいのちである。

主に守られている者の捧げものは自分の将来であり、自分が愛している大切な者であり、今日までの成功のすべてである。それらを御前に置いて敵の前に出て行くのだ。

 

アブラハムがイサクを捧げたような経験をすることがあっても、今はキリストを知っており、神がその愛するひとり子を十字架にたまわった事実を知っており、それは悲しみではなく光栄であり、心配することではなく慰めと希望に満ちていることである。

 

「強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身があなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」(6)

 

「主がともにおられる」ことがすべてである。モーセはどんなときもこの事実によって勝利を得た。彼は主にそのことを哀願してた。

強く雄々しくなるのは主に信頼する時である。敵を恐れる必要がないのは、主に身を避けて、みことばを掲げて前進しているからである。それによって生きて働く神のことばを経験し、困難の中で神への信頼は成長するのだ。

 

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ6:12)


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