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石ころ

主の選び

 イエスさまは、サマリヤを通っていかなければならなかったと書いてある。そして、ご自分から女に「水を飲ませてください。」とへりくだって声を掛けられた。なぜこれほどまでにしてこの女を選ばれたのだろう。夫を5人も変えて、今は夫ではない男と住んでいるふしだらな女に・・。一見、奥義を伝えるにもっとも相応しくない相手ではないか・・。

女はイエスさまに質問をしている。
「私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」

女の質問にイエスさまは、今も大切な信仰の奥義を教えられた。
「イエスは彼女に言われた。『わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。』」(ヨハネ4:20~21)

この世ではありえない。このような女の、このような問いにまとも答えてくれる人はいない。取り合ってもくれないだろう。イエスさまを見るとき、それは人の傲慢さからなのだろうかと思う。

 ちゃんと向き合ってくださるイエスさまに、彼女も臆することなくどんどん質問をぶつけている。わかるまで聞いている。
自分の罪深い生活を暴露されても、卑屈になることもなく、逃げ出さないで質問をしている。そして、彼女は今の私たちにとっても、とても大切なことを教わった。自分の立場をすっかり忘れて・・。
イエスさまに向き合うとき、私たちは自分の罪から解放され自由にされる。主のお側は恐れなくても良い、とても居心地の良いところ。

 イエスさまは誰に対しても、なんとまぁ、御真実に答えてくださる御方だろう。主を試みるパリサイ人に対しても、きちんと答えて決して無視はなさらない。それは、イエスさまがそれほどに謙遜な御方だからだろう。たとえどんなに厳しい言葉であっても、いつも親切に教え、解き明かし、悔い改めに導こうとしてくださった。

 サマリヤの女の価値とは何だろう。イエスさまがわざわざ尋ねてまで、彼女を選ばれた理由は何だろう。それはきっと、主から良いものを得るべき資格が何もなかったから、彼女には、自分を誇るべきものが何もなかったから・・。でも、彼女は主を知りたいと願っていたから。それ以外に考えられない。

何の資格もない者、何の働きもない者であると、自分でそのことを知っている者がイエスさまを求め、主が応えてくださった時、女は嬉しくて、驚きで、それまで恐れていた町の人々に伝えるために走りだして行った。イエスさまは求める者には、誰に対してもとことん応えてくださる、奥義を惜しむことなく話してくださる御方。

 
 拙い祈りが応えられたとき私は驚く。何度でも驚く。なぜ応えてくださったのか、なぜ祈りがきかれたのかが、私の理解を超えているから驚く。そして走り出したくなる。誰かにこの驚きを伝えたいから・・。
そんな私とは、何の良いものもなく、いやむしろ負い目ばかりの者だからこそ、この病人に医者であるイエスさまがお心に掛けてくださったのだとすんなりと理解できる。主はそのようなお方なのだと深いところから感動する。

 
「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:23~24)

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コメント一覧

石ころ
ハレルヤ!
主に感謝します。
イチゴ
ハレルヤ!愚かな妹に寄り添ってくださってありがとうございます。
感謝いたします。
コメントから真っ直ぐ伝わってくる聖なるものが強くて言葉もありません。
先日読んだ本に 「神のこどもたちにとって、わたしたちの心を破壊する最大のものは、凝視を内側に向けることだということを忘れてはなりません。」とありました。
私たちの中に良いものがないなら何もないなら、内省 は一見美しい言葉に聞こえますが、なんて愚かなことを私は繰り返してきたのでしょう。「今あなたを抑えている物は、実際に認識してるものであり、見出そうと努力しなければならないようなものではありません。」「何かがあなたの心に重くなったら、それに従って行動しなさい。そうすれば自由になります。」と続いて書かれていました。もちろん共に祈りが必須であるのは言うまでもないのですが。
「あのとき私を救ってくださいました~~楽しませてくださいました」 なんてい麗しい言葉でしょう。アーメンアーメン
石ころ
コメント感謝いたします
私も、イエスさまを知りたいのです。経験していたいのです。
いつもいつも・・主の愛の中に浸りきっていたいのです。
なのに、私は何も主に差し上げていません。
主が、私の望みを叶えてくださって、捧げものを備えてくださることはありますが、私から出たことではありません。
だから、私の中には何も良いものはないのです。

この世に置いても、主が私を良くして下さることは沢山ありますが、私が主のために、良い行いをしたなどと言えることは、何もありません。
むしろ、つまずきとなっている者だと思います。

主に、お会いしたとき
「私は・・・をあなたに捧げました」とは言えません。
ただ、「あの時、私を救ってくださいました。助けて下さいました。癒してくださいました。喜ばせて下さいました。楽しませて下さいました。・・・」そのように受けた事実ばかりお話しするでしょう。

「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」(ローマ4:5)
私の望みは、みことばだけです。私の中には何の望みもありません。
イチゴ
とりとめなく書いて申し訳ありません
ハレルヤ!主の憐れみと恵に感謝します。
「彼女は主を知りたいと願っていたから」アーメンです。
私自身「もっと主を知りた~い!」と求めてるのは確かなのに、今私の中に渦巻く疑問がある。何のために知りたいのか?苦しさから逃れる為なのか?主のように愛でありたいがためなのか。一体全体私は主を本当に愛してる?同様に家族を愛してる?
今日ある姉妹から電話があって思いつくままを話したら「足を洗ってもらったように すっきりした」と言われた。他人のことなら主に直結できるのに自分のことは 惑う。 
「私があまりに弱い親なので、どんなにぼんやりとしていても、主の備えに気づきます」という前回戴いたコメントがすっきり納得できないのです。ブログを読ませて戴いてる限り 強くてしっかりされてる印象を受ける。これが石ころさんのブログに魅かれる理由のひとつでもある。「弱い者は強いです」ということなのでしょうか。早々に結果を求めるのは止めようと思う。石ころさんと私は違う人生を歩んでるのでもあるし。ただここで埃のついた足を洗ってもらえるような気がする。
いつも娘に注意というか一言言おうとして言葉が決まらない。言おうとして言えない。
読んでくださってありがとうございます。 
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