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石ころ

イエスの生涯⑳ 

マタイの福音書10:21~11:1

10:21 兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に立ち逆らって、彼らを死なせます。

イエスさまを信じた者たちは、神さまを父とした兄弟姉妹と聖書に書かれています。イエス・キリストは長兄です。でも、弟子のユダはイエスさまを裏切り死に渡しました。

信仰によって家族の分裂は起こりうることです。人は簡単にはイエスさまを認めることは出来ないからです。でも、初めに信じた人から家族の救いは始まり、家族の救いによって分裂は修復されることを私は知っています。


10:22 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。
10:23 彼らがこの町であなたがたを迫害するなら、次の町にのがれなさい。というわけは、確かなことをあなたがたに告げるのですが、人の子が来るときまでに、あなたがたは決してイスラエルの町々を巡り尽くせないからです。

「蛇のように聡く、鳩のように素直でありなさい。」とイエスさまはあらかじめ言われました。迫害に対して、助け主である聖霊は知恵を与えて導いてくださいますから、その声に注意しつつ働くことが大切です。人間の熱心と賢さ、勢いですることではありません。進むときも退くときもやわらかい心と、みことばに従う素直さが必要です。


10:24 弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。
10:25 弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。
10:26 だから、彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので、現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。

 イエスさまはありもしない悪口を言われて、捕らえられ十字架で死刑に処せられました。
私たちはイエスさまの弟子であり家族ですから、信仰によってイエスさまと同じように、迫害や、誤解や、ありもしない悪口を言われることは、ある意味当然であり、師でもあるイエスさまのようになれたのなら喜ぶべき事です。
そのような非難を恐れる必要はありません。信仰によることから出ているのなら、噂を恐れることはないのです。イエスさまの十字架の罪のあがないを信じた私たちは、すべての罪をすでに赦された者であり、もう、神様でさえ、
わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。(ヘブル8:12)
このように約束をしていて下さるからです。


10:27 わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。
10:28 からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
10:29 二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。
10:30 また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。
10:31 だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。

イエスさまのお話を人々にしなさい。こそこそ隠れて話すのではなく、恥じたり、人を恐れたりしないで、言い広めなさいとすすめられています。
十字架のお話を正しく伝えることはイエスさまを先に知った者のつとめです。

イエスさまは、すべての人のために十字架で罪を負ってくださったのですから、ひとりでも多くの人にそのことを知らせることは、イエスさまの願いでもあります。人の評価を気にしないで、ただ主から導かれるままに話すのです。教えるのは助け主なる聖霊です。主を畏れるゆえに語ります。

何をも、誰をも、恐れる必要はないのです。神が私たちの味方です。雀でさえ神の知られずに死ぬことはないのです。まして、私たちは神の子とされすべての必要をすでに備えられている者です。


10:32 ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。
10:33 しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。

私が、イエスさまを人前で紹介するなら、イエスさまも神様に私を紹介してくださいます。私が人を恐れてイエスさまのことを隠すなら、イエスさまも私を知らないといわれます。イエスの光を隠さずに高いところに置いて輝かせなさい、といわれます。


10:34 わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。
10:35 なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。
10:36 さらに、家族の者がその人の敵となります。
10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。

この言葉には驚くのですが、イエスさまに出会うまで、人はみんなサタンに支配されている状態です。私たちが造られたときに、神様から吹き込まれた霊は死んだ状態です。
イエスさまに出会ったとき、霊にいのちが再び与えられ永遠のいのちへとつながって行くのです。でも、サタンは私たちがイエスさまを知ることを嫌って邪魔をします。そこに信じる者と信じない者との争いやもめ事が起こります。

家族が仲良く暮らすことはとても美しいことですが、そのままではみんな滅んでしまうのです。最も大切なことは「和」を守ることではなく、命のある間にイエスさまを知ることです。それが何よりも重要なのです。死んでからではイエスさまを選ぶこと、永遠のいのちを頂くことはできないからです。

 今まで家族を一番大切にしてきた人が、イエスさまに出会って家族を置いて礼拝に行くようになったとき、家庭は平和を失うかも知れません。でも、イエスさまを知らないままの平和は、見せかけの一時的な平和にすぎません。何か事が起こったときにたちまち失われる平和です。

イエスさまに出会って起こる混乱は、平和をもたらせるための一時的な混乱です。家庭をイエスさま中心に切り替えるための一時的な混乱です。
イエスさまを家庭の中心とするとき、主は家族を祝福してくださいます。イエスさまが責任を持ってくださり、嵐が訪れても壊れることのない平和な家庭となるのです。

 しかし、家族でも、ひとり一人が自分でイエスさまを信じることが必要です。○○家の信仰ではありません。家庭を祝福してくださいますが信仰は個人の信仰です。個人の信仰の告白によってひとり一人救われ、永遠のいのちを頂くのです。
このことは厳粛なことです。でも心配には及びません、みことばの約束があります。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)


10:38 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
10:39 自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。

自分の命の心配をして生きてゆく人は、自分で自分の責任を取ることになります。でも、イエスさまに自分の命や自分の計画をお任せした人は、イエスさまが心配をしてくださり、イエスさまがすべての必要を備えてくださいます。

だから私は家族のこと、また自分のことを心配していません。良き方、イエスさまに信頼しているからです。だから人と争って自分たちを守る必要もないのでとても気楽です。
もろもろをイエスさまに祈るとき、すべてはもう解決したのです。祝福することも復讐することも、イエスさまがしてくださることだからです。


10:40 あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。
10:41 預言者を預言者だというので受け入れる者は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だということで受け入れる者は、義人の受ける報いを受けます。
10:42 わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」
11:1 イエスはこのように十二弟子に注意を与え、それを終えられると、彼らの町々で教えたり宣べ伝えたりするため、そこを立ち去られた。

イエスさまを信じる者はイエスさまの家族だからです。神様はこれほどに、イエスさまのゆえに救われた私たちを、愛していてくださるのだと思います。

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