イエスさまは私の苦しいときに、心の戸を激しく叩いてくださった。その時私は、もう、どうしょうもなくなって戸を開けて、主を迎え入れ、自分の中の醜さをさらけ出して隠さなかった。さらけ出すことが出来たのは、主が平安を下さったから。主がそういう御方だったから。
まともに触れられたら壊れてしまいそうな部分にも、本当に主は、繊細に愛深く悔い改めに導き、なにも壊されない・・。
「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、」(イザヤ42:3)アーメン
イエスさまが百人隊長の信仰を喜ばれたのは、御自身を知る者を礼拝者として求めておられるからだと思う。「見ッけ!」そんなふうに喜ばれたのだと思う。自分で育てておいて成長した姿を喜んでくださる御方。
私は、私自身をさえイエスさまが知らせてくださるにお任せ。そんな私の恥を主がいつも受けて下さっている・・。それは本当に、イエスさまの愛と忍耐を経験することにつながって行く。
「神、主よ。私がいったい何者であり、私の家が何であるからというので、あなたはここまで私を導いてくださったのですか。」(2サムエル7:18)アーメン
でも、今私たちは百人隊長のように主に接する者ではない。その御方はいつも共にいて下さる御方。私のもっとも穢れた部分をすべてご存知で、聖めてくださった御方だから。慣れ親しんだ御方であり、日夜礼拝しひれ伏す御方。とても不思議な関係でも、それはとても自然。
百人隊長はしもべを愛する心優しい人だったと思う。でもその人への愛を、イエスさまを礼拝する愛に導かれたのは主。
「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」 (ローマ11:36)
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