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石ころ

百人隊長

もし、百人隊長の信仰が、イエスさまの癒しの噂を聞きつけた程度の信仰であり、イエスさまの憐れみを受けて彼のしもべが癒されたからといって、それが一体どれほどのことだろう・・幾度癒されたとしても人は必ず死ぬのだから。

「おことばのとおりに」なるという百人隊長の信仰に至らなければ、聖書を読む意味はないと思う。
曖昧な信仰で終始して、結果、暗闇で歯ぎしりをするような御国での生活は、ゲヘナよりも辛いかも知れない。だって、主と隔てられたところが、永遠の住まいとなるならそれはとても恐ろしい。

今、私たちは聖書によってイエスさまに出会い、百人隊長のようにイエスさまのおことに信頼して、みことばに拠り頼んで信仰生活を送る。もちろん信じる者に働く神の助けに守られてのことだけれど・・。

主のおことばによってすべては創造され、十字架のことばはふるいとなって、そのみことばを聴く者の信仰を、その日々の生活の中で証する。


「神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。」(エペソ1:9)

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コメント一覧

エシュコル
『人は真にイエスを知ることと同じほどに、自らの姿を知ることが本当に大切なのだと思わされるのです』   本当にそうですね。イエスを知れば知る程に垂り穂の様にひざまずき最後には地面に這いつくばる様な者です。 ルカ7章ではユダヤ人の長老達は、「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。…」と言ってます。しかし百人隊長は友人達を使いに出して、「…あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。…」この対比した資格…。   屋根の下に入れる資格とは何ぞや? これを自分の心に置き換えてみたら見えてきました。そういうことか、と。   石ころさんであるむべさん、さっちゃん、本当に色々教えて下さり有り難うございましたm(__)mそして何より主イエスに感謝します。イエス様有り難う。
愛知県のさっちゃん
感謝します
教えてくださいなんて、とんでもないことです。私のほうこそ石ころさんのブログを読ませていただくにつれ、教えていただくことが多い者です。

しかし、ともに御言葉を分かち合う、いえ、ともに食べ、その味に感動しながら交わることができる姉妹をお与えくださった主に心から感謝しています。
あらためて、こちらこそよろしくお願いします

石ころ
お導きを感謝します
愛知県のさっちゃんさん
もう一度ルカ7章から読み直しました。
「イエスが感じた深い感動の中に引き寄せられ、喜びさえも感じます。」

こんなふうに聖書を読むのだと教わりました。
これからもいっぱい書きますから、沢山教えてください。よろしくお願いします。
愛知県のさっちゃん
百人隊長の姿
主イエスさまが「このようなりっぱな信仰」とおっしゃったことが、
 百人隊長の「お言葉をいただかせてくださいそうすればわたしの僕は必ず癒されます。」の言葉を受けたもの・・とだけにしか以前は捉えていませんでした。
しかし、ルカ7章をよくよく読んでみるとはじめこの百人隊長は,人を送って、僕を助けに来てくださるように・・とお願いしているのです。
はじめからお言葉をくださいとは言ってはいません。ところが、イエスが彼の家に近づいてくる途中ではじめて友人を使いに出して、
「わざわざおいでくださいませんように。」と告白していることに百人隊長の心の変化があったことに気がつきます。
 私たちにとってイエスというお方が近づいてくださるとき、自らの真の姿に気がついてゆきます。「私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。」自分が神の前にどのような者であるのかを深く知り、その上でお言葉をいただかせてください・・と告白していること・・周りの、ユダヤ人の評価によってではなく、神の前に一人の罪人として、砕かれた心のまま、私の屋根の下に、お入れする資格すらないと思うほどに深く頭を垂れた姿です。

言い表された信仰の言葉の背後にある姿すべてをイエスはご覧になられているのだと思いました。
そのような目で百人隊長を見るにつれ、イエスが感じた深い感動の中に引き寄せられ、喜びさえも感じます。人は真にイエスを知ることと同じほどに、自らの姿を知ることが本当に大切なのだと思わされるのです

石ころ
十字架
人は、十字架をどのように知ることが出来るのか・・私はこのことを考えるとき、
「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」(ヨハネ15:16)
いつも、このみことばを思い出します。

それ以外に私には分りません。
伝道でも、いつもこの問題で行き詰まってしまいます。
百人隊長の信仰も、やはり導く方がおられたとしか私には思えません。
神様はすべてのことをあらかじめご自分で備えておられるのだとしか思えません。

だから、十字架をいくらか自分のことと知ることが出来た、その恵みの重大さに、「なぜ私が・・」と言葉につまります。
それは私の罪による部分が大きいと知っていますから、忍耐してくださった主に感謝がいっぱいになります。


エシュコルさとやん
なにげない記事に心が動揺してます。やはり十字架が少しでも分からなければ、この記事に書いてある様な信仰はムリと私だったら思いますね。何故百人隊長はそんな信仰があったのだろうと思いますが、素直な純粋な心の持ち主だったのかな?
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