石ころ

弱さのうちに働く神の力(創世記20章)

 

アブラハムは、自分の妻サラのことを「これは私の妹です」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは、人を遣わしてサラを召し入れた。
その夜、神が夢の中でアビメレクのところに来て、こう仰せられた。「見よ。あなたは、自分が召し入れた女のために死ぬことになる。あの女は夫のある身だ。」(2~3)

 

アブラハムは、妻のサラを妹と言わせて身を守ろうとした。異母兄弟が事実であっても、妻という事実の前にその言い訳は通らない。それは彼の弱さから出た遣り繰りである。神はあわてて?王に警告をしてサラを守られた。

 

神は不思議なお方である。もっと正々堂々と生きる強い人がいるであろうに、そのような弱点のを持ったアブラハムを選ばれたのである。


弱さをご存じで選ばれた神は、弱さに対しては責めることをなさらず、時に卑屈とも思える生き方をも受け入れて守っておられる。

 

ヤコブはアラム人ラバンを欺いて、自分が逃げるのを彼に知られないようにした。(31:20)

 

身を寄せていたラバンの家から、妻や自分の家畜をもって逃げ出す時も、神はヤコブが責められないように守られた。

 

神は夜、夢でアラム人ラバンに現れて仰せられた。「あなたは気をつけて、ヤコブと事の善悪を論じないようにしなさい。」(31:24)

 

キリスト者が常に正しくいられるわけではなく、弱さの中で逃げ出すとき、神はその弱さに同情して守ってくださる。それは、その弱さをも神が選ばれたことだからである。

 

しかし新約の今は、その弱さのうちに三位一体の神が住んでいてくださり、知恵と力に満たして導いて下さる。それゆえ遣り繰りから守られており、いつも平安があるのだ。

 

主は「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。(Ⅱコリント12:9)

 

神は人の強さの中には介入なさらない。弱さは御前ですでに砕かれて、聴く耳を持っているからである。それゆえ弱さが責められることは無い。

 

私たちがうちにおられる神に在ってみことばを聴き、聖霊の導きの中で勇敢にみこころを行うことが出来るのは、どんな時も神の備えがあることを知っているからであり、日々のみことばと交わりの中で、備えも助けも経験して信頼しているからである。

 

私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。(ピリピ4:13)

 

 この記事をupしようとした時に、昨日の題名に中に「創世記」を「黙示録」と間違っていたことに気づきました。まったくなんてこと・・聖書の最初と最後の間違い!

 あまりに言い訳に過ぎると・・今日はupするのを止めようかと思ったのですが、止めることを止めました。
今日のこの仕事をupし終えたら、また新しく教えていただくことができるのです。それで留めて置きたくないと思いました。
どうぞ時々やらかす間違いをお許しください。


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