アブラハムもモーセもダビデも、ペテロもパウロも、聖書には彼ら勇者の失敗がありのままに書かれている。
そうして、彼らの失敗を覆う神の備えや、忍耐と愛も書かれている。
神は選びの前から私たちが失敗や間違いを犯すことをご存じで、そのための備えも準備して下さっていることがわかる。
失敗しないために最も有効な方法は何もしないことであるが、神の御前にそれは取り返しのつかない失敗となる。
それは作者の目的を果たさない器となることで、何もしない時は神の助けも備えも必要ではなく、赦しを経験することもなく、神は交わりの中で導き育てることが出来ないので、存在しないのと同じになる。
主は約束したとおりに、サラを顧みられた。主は告げたとおりに、サラのために行われた。
サラは身ごもり、神がアブラハムに告げられたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。(1~2)
アブラハムと女奴隷の子イシュマエルはサラを苛立たせた。サラに責められて彼は悩み苦しむこととなる。その苦しみは彼の失敗の子であるイシュマエルが、主に受け入れられないと思う不安でもあろう。
神はアブラハムに仰せられた。「その少年とあなたの女奴隷のことで苦しんではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。というのは、イサクにあって、あなたの子孫が起こされるからだ。
しかし、あの女奴隷の子も、わたしは一つの国民とする。彼も、あなたの子孫なのだから。」(12~13)
神は人の失敗の尻拭いをするように、イシュマエルにご計画があることをアブラハムに教えて彼に平安を与えられた。アブラハムがイシュマエルをサラの言葉に従って野に放ったのは、神の御約束に信頼してのことである。
神が少年とともにおられたので、彼は成長し、荒野に住んで、弓を射る者となった。(20)
失敗をも受けいれ、備えていてくださる主に在ってはじめて、私たちは命じられたことを行う勇気を得るのである。その信頼に在ってのみ、どんなことでも出来る。それは神のご真実を知ったからである。
人は何かをすればたいがい失敗や問題を起こす。それは私たちが神ではないからである。
蛇がエバを誘惑するとき「神のようになる」と教えたのはこのことであり、エバが、自分が完全ではないことを知っていたのだ。
しかし神は人がご自分に信頼して、共に生きることで完全と成るように造られたのである、
私たちは神に拠って生きる者であり、神の形の霊を満たしていてくださる方を求め続ける。
神に信頼しなかった失敗には痛みも負うが、神はその罪によって欠けた部分をキリストによって覆い、同情してくださっていることを知る時、愛と慰めと勇気をたまわるのである。
また人がその弱点を、互いに覆いあう愛を育むところともなるのだ。