石ころ

記憶 




 うっとうしい空の下、手に食い込む買い物袋を下げて頑張って歩いていた。
ちょっと近道をしようと路地を曲がったとき、主人がその家の仕事で怪我をした事を思い出した。

チェンソーで切り倒していた木が、足の甲に落ちて来たのだった。怪我を知ったその家の人が「医師と親しい」と連絡をしてくれた。
一緒に仕事をしていた彼の車で走って下さったが、無傷に見える主人は医師にまともに相手にしてもらえず、けんもほろろの扱いを受けたという・・。

彼は家まで連れて帰ってくれたものの、「もう一度他の病院に行こう」と何度も勧めてくれた。事故を目の当たりにしたのだから、傷は見えなくてもただ事ではないと思ったのだ。

 私はその時「天使の守り」と確信したので「大丈夫です」と答えた。私が落ち着いていたので彼も少し落ち着いて帰って行った。
主人は病院の扱いに怒ってはいたけれど、何よりも自分の失敗を恥じていた。何十年も「山行きさん」をして来て、「こんな怪我をしてしもうた」ことを恥ていた。

「あんな太い木が落ちたんや、もう足が無いと思うたで・・」先ほど彼は興奮して言っていた。
しかし、びっこを引いてはいるけれど動けるし、印のようなわずかな傷が甲にあるだけだった。私は血の滲んだその傷に絆創膏を貼った。

「まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。
彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする。(詩編91:11~12)」

主人にみことばをカードにして渡すとずっと車に付けていた。このような折々の主のみわざによって救われたのだ。


 その事故をまざまざと思い出した時、主人が保険金詐欺か何かのように扱われたと、かっての怒りがこみ上げて来たのだ。
しばらく歩いている内に・・はっとした。
今朝、「私たちも、私たちに負い目のある人たちをみな赦しました。」このように祈ったことを思い出したのだ。

「赦します。みな赦しました。」再び祈った。このような時はいつも笑ってしまう。自分の中のどうしようもないネガティブな記憶、何度でも突然吹き出してくる執拗さに苦笑いをしてしまう。

でも、主は何度でも「赦します」という祈りを聞いて、何度でも受け入れてくださるお方。「7を70倍するまで赦しなさい」とペテロに教えたお方は、十字架で完全なる赦しを実現してくださった。
だから赦しの中に自分自身も入れて平安を頂くと、すぐにそんな自分を晴れやかに笑うことができるのだ。


 主の祈りは、キリスト者の一日中続く祈り。
その祈りを「イエスさまが教えられた祈り」と言いつつ、聖書とは違うものを早口で唱える。私はそのことがあまりに苦しくて教会に出席出来なくなった。
ピリピ2章を読んでいて、
「あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志をひとつにしてください」というパウロの言葉に胸を刺されたとき、
間を置かず、「御父と御子と聖霊の交わりに身を避け、公同の教会に在って神の愛に浸って居なさい」という導きを頂いた。今はそこに安息している。

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