主人が亡くなったとき、諸々の手続きが続く中で最も心が痛かったことは、すべての権利があっという間に取り去られて行く事であった。
氏名でさえも事務的な手続きによって「剥奪」されるかのようで・・。日本国民としての権利、すべての保護、生涯をもって築いてきた諸々が、本当にあっという間に消滅してしまうのだった。
「死ぬ」ということはこういうことであったのか・・とその時初めて気付いた。
私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。(ローマ6:4)
キリストの死にあずかった者は、世に対して死んでいるのだ。死によってのみ新しいいのちを受けることができるから・・。
世における死とは何か、この世では籍を持たない者であるということ。権利も保護も無いのである。世には頼りになるものを何ももってはいない状態になったのである。
けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。(ピリピ3:20)
新しいいのちによって生きる者は、天の国籍によって天からの保護を受ける権利を得たということである。
すべての必要はその完全な救い主イエス・キリストによって備えられる。天が世より貧しいことなどあり得なず、創造主が被造物より貧しいことなどありえないのだ。それは霊にも魂にも体にもあそうであって、すべての必要は天の国籍を得た瞬間から与えられるのである。
ただ、天と世の間に彷徨うならゾンビである。限りある世に生きるのか、天に生きる者であるのかを選ぶことができるのは今、世に生きている間である。
世ではどれほど頑張っても残るのは墓でしかない。
「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」(ピリピ3:8)
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