石ころ

新しい墓に




 その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。(ピリピ3:6)

律法の教えによって、熱心にキリストの弟子たちを迫害していたパウロは、肉の目が閉ざされたとき霊の目は開かれた。
サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、(使徒9:18)

しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。(ピリピ3:7~8)

キリストを信じる信仰による義を知ったことによって、彼は自分の積み上げてきた善きものを塵あくたと捨てさったのだ。この時パウロは新しく生まれた。

 兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。(ピリピ3:17)
パウロは、はっきりと見習うべきものを指し示して、彼の望みを示した。

「私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。
生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」(ピリピ1:21)新改訳
彼にとって生きることは「あなたがたの信仰の進歩と喜びとのために、」(ピリピ1:25)であり、死ぬことは彼の望みに叶うことであった。

 積み上げてきた善行を捨てて、愚かに思える十字架のことばとともにキリストを迎え入れる場所は、人が賞賛する偽善臭の塔ではない。それは死体の詰まった墓であるから・・。
主が来てくださるのは空の墓のような霊であり魂である。そこを主が清い聖霊の宮とし、いのちを満たし、力を満たし、豊かに備えてくださる。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(Ⅱコリント5:17)



 嵐の中の笹舟に乗っている次男からメールの返事があった。
「会社がこの先どうなるかはわからないけれど、今自分の仕事をちゃんとやって行こうと思っています。」
そう、彼の態度はずっと落ち着いていて少しも変わらない。
イエスさまがダウンの翼の中に守ってくださっているのだろう・・。

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コメント一覧

ムベ
再度書いて頂いて申し訳ありません
二度もお手間をかけて頂いてありがとうございます。
そうでした。コメントはとっておきませんよね。
簡単に「もう一度送ってください」ってお願いして済みません。

「みかむりをも」この聖歌は大好きです。心に染みます。
家畜と獣をわけていらっしゃることは、気づきませんでした。
山羊と羊のようなものなのでしょうか。

「封印硬き兵の努力を空しくして、打ち破り
その福音と言う種は発芽されました。」

ああ、そうなのですね。
私も頑なに自分のやりたいように生きているその中で、
「命には触れるな」と主が種を蒔き、芽を出す時まで
忍耐を持って守っていてくださったのだと思いました。

「地獄への道程は人の善意で踏み固められている」

悪事によって・・なら分かり易いのですが、此処がとても困難な峠です。
聖霊に目が開かれなければ見えないのが地獄みたいです。
誰でも地獄が見えていれば立ち止まるでしょうから・。

みかんさんのこと、私も心を合わせてさせていただきます。
息子のこともお祈り心から感謝いたします。
主は信頼する者に真実なお方、ご自身を否むことはできないお方!
心から感謝です。

本当にコメントありがとうございました。嬉しいでした。
電気屋
前と同じように書けるかは別として
この様な話だったと思います。


「新しい墓に」 読ませて頂いて、

何故か好きだった(今も好きですが)クリスマスの頃よく歌った聖歌を思い出しました。
群衆で賑わう旅籠には、今夜まさに生れ落ちようとするする主を受け入れる部屋さえなく
家畜と共に夜を明かす事となりました。
神様が動物を造られる時に、家畜と獣とに分けてらっしゃる様で
さすが、誠の羊飼いであられる方だなと幸いを感じております。


 みかむりをも なれはすてて
 世にくだりまししに ただのひとまさえもあけて
 むこうるいえなし きみよこのこころに
 きたりすみたまえ

 みつかいらは こえをあげて
 ほめたたえまつれど すくいぬしの
 おおみあれを ことほぐひとなし
 きみよこのこころに きたりすみたまえ

主がある人々をさして、「白く塗られた墓」と仰った様に
人は墓にも例えられるのでしょう。
2000年前と同じように、本来空しいだけの私たちのこころと言う墓に
神のことばとして来られた方は、
封印硬き兵の努力を空しくして、打ち破り
その福音と言う種は発芽されました。

地獄への道程は人の善意で踏み固められているいう言葉の様に
何とも人の行いはいつも空しく
そしてその名を「不思議」ともいう主のなさる事は稀有な事でしょうか。

どうぞ息子様もまた主の御手の中にあって満たされ
今日入院されたみかんさんの術も神の守りがありますように
ムベ
すべてを成し遂げてくださった十字架のイエスを納める墓が私にある。
愚かにしか思えない十字架のことばと共にお迎えするのは、
私の「空の墓」だと気付かされたのです。
徹底的に自分発の善きものがないところに・・。
それが唯一の聖さだと・・。

すみません。わかりにくいですか・・
でも、他に表現の仕方がないのです。
みかん
http://blog.goo.ne.jp/agapelife
こんにちわ みかんです

キリストを迎え入れる場所は、人が賞賛する偽善臭の塔ではない。それは死体の詰まった墓であるから・・。
主が来てくださるのは空の墓のような霊であり魂である。

このように考えたことはありませんでした。
キリストとともに古い人を十字架につけて、キリストとともに死んだ魂に、生けるキリストの霊が入って満たし、新しい復活の力を与えるということでしょうか・・・・

今日の伝道集会には、空洞になっている心をなんとか満たしたいという方々が来られました


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