息子に頼まれてある特別な切符を入手するために、私は連日予約の電話を掛け続けていた。いくらかけても「申し訳ございません。」という売り切れによる謝罪の言葉ばかりだった。
その日の朝、息子は「今日は誕生日だから手にはいるかもしれない。買えたらメールしてくれ・・」と言って出かけて行った。私は自分の誕生日を特別な日なんて考えたこともなかったので、「何の関係があるのだよ・・」と彼の甘い考えをちょっと笑った。
けれども、このことについて今まで祈っていなかったことを思い出し、「みこころにかないますなら、彼の望みを叶えてやってください。」とほんの一言付け加えて祈っていた。
電話は、発売と同時でなければ無理だと聞いていたけれど、その日は事故のことで頭がいっぱいになって、その時間をすっかり忘れてしまっていた。
突然思い出し思い出して、もう時間が過ぎているからどうせだめだろうと思ったけれど、祈ったのだから・・と、それでも、駄目元という気持ちで子器を取った。
しかし、「はい。・・でございますね、お取りしました。」しごくあっさりと、今まで聞き慣れた言葉とは違う内容に、なぜかその時私はうろたえた。
こんなとき、私は自分がいかに不信仰であるかを思い知る。不思議だけれど、祈りがかなえられるときに自分の信仰の無さを念押しされる。
それでも、実際に入手するまでは、本人からの手続きではないと言うことで、あれこれと遣り取りが続いた。今までの私はこういう時あっさりとあきらめる性質。ルールだから仕方がないと・・機械的にそう思ってあきらめてきた。
でもこのとき初めて、ルールに対して人間の血の通ったところで交渉をするという、ねばり強く訴えかけるということを経験した。そんなことが出来たのは、主が共に居てくださるという確信があったからだと思う。
すべてが終わったとき涙がにじんだ。切符が嬉しいだけじゃない。駄目なら他にも手に入れる方法があると息子から聞いた時「真っ正面からがいいよ。ちょうど良い時にイエスさまが必ず与えてくださると思うから・・」と私は言っていたから。
息子には主から良きものを受けるべきいかなる正当な理由もない。まったくない。何時もいつもそれは純粋に一方的な主の憐れみによるもの。
「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」(ローマ9:15)ということ。
私はすべてのことを主の御手を通して受けたいと願っている。そうするなら何が起ころうと、これは主のご計画によるものとすんなり「アーメン」できる。それなら私は平安だから。良いことでも悪いことでも、主と共に歩んでいたのならそれは祝福だと思う。
主は生きておられる。こんな小さな私たちの日々の卑近な事にも、また、大きな事々にも、そのすべてに働いてご自身を現し導いてくださっている。そのことを自身に味わうとき心がふるえる。
「キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。」(コロサイ2:7)
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