石ころ

イメージ


イメージに振り回されることは、キリスト教にも本当に多いと思う。教会というイメージがあり、牧師と言うイメージがある。クリスチャンというイメージがあり、それぞれに自分の神様イメージがある。自分の持っているイメージに合わせようと、日々やりくりするクリスチャンさえある。

イメージは事実ではない。でも、人はイメージに合わせて事実を曲げることも平気でする。人は決して事実だけを見て生きては居ない。今、目の前のことによって困るわけではなく、先にあることをイメージして、まだありもしない事に困ったりする。

見ていても信じないし、また、見ていないのに信じる。私たちのイメージは何によって生まれているのだろう・・それはとても重大なことと思う。

イメージよる好みはとても頑固で、信仰生活でもやっかいなもの。聖霊によってイメージの沸くところを支配して頂かなければ、肉から沸くイメージは私たちを振り回し、私たちを支配し続ける。みことばを生きることを妨げ、正しくイエス様の姿を描いて安息することも妨げられてしまう。

みことばに裏打ちされた、イエス様にある正しいイメージが私たちの中からあふれて流れていきますように。その祝福の流れが、私たちの教会を、家族を満たしていきますように。


イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」 聖書

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コメント一覧

石ころ
みことばをイメージして歩む
こじゃり様のクリスチャンイメージとても健やかですね。

救われて生まれ変わった者は、イエス様に似たいと自然に思います。聖なるものに渇くのですよね。



イエス様を礼拝できることは喜びです。礼拝する時、私たちはいのちを受けて満足するのですね。それは、人との交わりとは違うものです。



イエス様をみことばの通りにイメージすることはとても大切だと思います。

信仰によって、読んだみことば、聞いたみことばをイメージして自分に定着させていくことが、みことばを生きることにつながると思います。

こじゃり
イメージから思うこと


 私達は、イエス様と言うお方のイメージを持っています。でも、そのイメージは聖書に書かれてある、御言葉によって示された、確たるものです。その意味で、イエス様を信じる私たちクリスチャンは、イエス様に対しては同じイメージを持つ者ですね。



 又私達は、イエス様に似るものになりたいと願います。なれるわけはないけれど、イエス様が喜ばれるような歩みをしたいと祈ります。



その結果として、信じていない人から見れば、クリスチャンはよく似た人達として、一つのイメージができてしまうのではないでしょうか。



日曜礼拝、日々の祈り、賛美等、私達は強要されているわけではなく、したいからしていることですが、そんなことがクリスチャンとしての

イメージとなるのでしょうね。
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