石ころ

忌み嫌われる守り(創世記46章)

 

 ヤコブから生まれた子供たちの名が列挙されている。神の祝福によって大いなる国民に増え広がるイスラエルの家族は、エジプトに下った時には70人にまで増えていた。

 

ヨセフは車を整え、父イスラエルを迎えにゴシェンへ上った。そして父に会うなり、父の首に抱きつき、首にすがって泣き続けた。
イスラエルはヨセフに言った。「もう今、私は死んでもよい。おまえがまだ生きていて、そのおまえの顔を見たのだから。」(29~30)

 

ヤコブとヨセフの出会いは神の守りと祝福の極み。本当に主はご真実である。
キリスト者は聖書から確かな励ましと望みを受ける。今日私たちに居て下さる神が、世の初めから永久まで変わることのない神であられ、日々の細やかな祈りの中で、今も生きて働かれることを経験しているからである。

 

 彼らは羊飼いなのでエジプト人に忌み嫌われるとある。それゆえ彼らはエジプトの風習に染まらずに、聖め分かたれ主に在って暮らしつつ、エジプトの中で養われることが可能なのである。これこそ神の備えであろう。

 

誰にでも愛され好意をもたれて暮らすことは心地よく、人の望むことであるが、時に忌み嫌われることによって守られ、主にたまわった役割に留まって守られることもある。

 

イエスが幼いころは、神と人とにいつくしまれた。しかし、「十字架にかけろ」という群衆の罵りのうちに父なる神にも捨てられて、救いの御わざを完了してくださった。
地では真にイエスを知る人は無く、御父とのお交わりだけが慰めであったが、十字架の孤独はイエスの心を引き裂いた。

 

イエスの孤独をキリスト者も経験する時があるが、私たちの孤独はイエスの慰めに満ちている。

イエスに癒された盲人は、癒やし主を告白したとき親にも世に捨てられた。イエスは彼を探し出し近しく交わり、永遠の望みに導く礼拝を導いてくださった。
究極の孤独をご存じのイエスは、キリストを告白する孤独の中に近しく来て、永遠の望みに満たしてくださる。

 

キリスト者が育てられる世にも忌み嫌う者もおり、一緒にはなれない交わりもある。でも、その場所で信仰は鍛えられ、守られ、イエス・キリストを礼拝する恵みに与ることがある。


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