イスラエルは、彼に属するものすべてと一緒に旅立った。そしてベエル・シェバに来たとき、父イサクの神にいけにえを献げた。
神は、夜の幻の中でイスラエルに「ヤコブよ、ヤコブよ」と語りかけられた。彼は答えた。「はい、ここにおります。」(1~2)
もっとも大切なことは、主が呼ばれる御声を聴く霊の耳であり、いかなる場合であっても「はい。ここにおります」と恐れることなく、すぐに答える信頼である。
すると神は仰せられた。「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下ることを恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民とする。
このわたしが、あなたとともにエジプトに下り、また、このわたしが必ずあなたを再び連れ上る。そしてヨセフが、その手であなたの目を閉じてくれるだろう。」(3~4)
「主が共に居て下さる。」という祝福があれば何の不足もない。みことばはすべてを保証する。
キリスト者の幸いは、霊のうちに三位一体の神を宿していることである。現実が、狼の中の羊のようであっても、向かう所敵なしなのである。死さえも祝福のゴールなのだから。
エジプトに下って行く時も先立つ主のご計画があり、エジプトを去る時にも主が導かれるなら、恐れるものは何も無く大らかに伸びやかに、神の栄光を現わしつつ生きる者であろう。
神が導かれた所を歩み、神が備えられた場所で死ぬ命はなんと幸いであろう。その全生涯は守りと慈しみの御手の中にあるのだから。
ヤコブを祝福される神のことばは、受け取った時に成就している。神を妨げるものなど何も無いからである。彼が恐れて、みことばのたまわりものを土に埋めさえしなければ・・。
神はヤコブに「わたしがともにエジプトにくだり・・」とまで約束をされた。
主こそ狩人の罠から 破滅をもたらす疫病から あなたを救い出される。
主はご自分の羽であなたをおおい あなたはその翼の下に身を避ける。主の真実は大盾また砦。
あなたは恐れない。夜襲の恐怖も昼に飛び来る矢も。
暗闇に忍び寄る疫病も 真昼に荒らす滅びをも。(詩91:3~6)
世で生きる試練の日にも、神はすべての必要を備えて、危険から命を守っていてくださる。確かに、私たちのどのような日々も主はすべてご存じである。
たとえ私が天に上ってもそこにあなたはおられ 私がよみに床を設けてもそこにあなたはおられます。(詩139:8)
良い時も悪い時も共にいてくださるゆえに、すべての日は恵みと守りの中にある。私が塵に過ぎないことをご存じの主が、共にいてくださるゆえに私は安息して眠りにつくことが出来る。
神がヤコブのすべてをご存じで、良きご計画が少しも変わらないのは、神のご真実に拠ることである。
イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。(へブル13:8)
今キリスト者も主の憐みの中で、個々の日々のすべてを知られており、それらによって捨てて孤児にはされず、主のご真実によって初めからの良きご計画を守っていてくださる。
キリスト者が互いに尊敬し合う根拠は、日々のあれこれには拠らず、うちに居られるキリストに在る。それゆえ、互いの尊敬の念は変わることは無いのだ。