石ころ

いのちの書の名


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 そこでモーセは主のところに戻って、申し上げた。「ああ、この民は大きな罪を犯してしまいました。自分たちのために金の神を造ったのです。
今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら・・。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」
(出エジプト32:31~32)



 モーセは自分の永遠のいのちを差し出して取りなした。
そのようなモーセは素晴らしいと思ったが・・ふっと気付いた。このいのちはモーセのものではなく、主によって賜ったものではないか。
主に賜ったものを差し出して、交渉することが本当に可能なのだろうか・・、

たとえば、殿様から頂いた宝物を差し出して、家臣の命乞いをすることなど絶対に許されない。それは殿様から頂いたものをないがしろにするようなことだから・・。

 モーセの言葉の通りに、モーセのいのちを奪って叛逆の民を赦す事など神様にできることだろうか・・。
絶対に出来ないと分かっていながら、そういう取引を持ち出すことは小狡いことのように思えた。

「父を葬るために・・」と言ってイエス様の召しを断るような者。
モーセにも、このことにおいてはそのような匂いをかぎ取ってしまう。人とは、無意識にそういう選択をしてしまうものなのか・・。

いやいや、それ以外に救う方法がなかった?そうかな・・、神様はモーセ以上に彼らを憐れむお方ではないか・・。
人が誰かのために命を差し出したとして、それをもって造り主と交渉する材料とは成らないと思う。もともと、それは神様のものだから・・。


 しかし、主はモーセと語り合ってくださった。彼の言葉を聞いてくださっていた。
主の赦しの中で人が御前に居ること。そこで主のご愛に訴えること。そのような造り主との交わり、それこそが私たちに出来る唯一のことではないだろうか・・。


すると主はモーセに仰せられた。「わたしに罪を犯した者はだれであれ、わたしの書物から消し去ろう。」(出エジプト32:33)

すべて決めるのは主である。
主がモーセの哀願を聞いてくださったのは、モーセのいのちが差し出されたからではなく、彼の民を憐れむ愛が差し出されたことによるのだ。


 今、御子のいのちと引き替えに頂いたいのちの書にある私たちの名は、いかなる理由があろうとも決して手放してはならない。それは神から賜った最高のプレゼントなのだ。唯一守り通すべき宝物なのだから・・。
それを差し出す事を主が喜ばれる事など決してないと思う・・。それは神様が人と共に喜ぶために与えてくださったのだから。


 それにしても、このうなじの強い民に対するモーセの忍耐を思う・・、改めて自分自身がイエス様のご愛を受けていながら、なんとまあ、堪え性のない愛の無い者かと、自身の不甲斐なさに思いは至る。
「イエス様の愛をください」と主にすがろう・・。

今週のメッセージで、イエス様が二人ずつ世に使われた箇所から、ひとりではなく、祈り合うためにも2人3人集まることの大切さを話されたなぁ・・。


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