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石ころ

ひれ伏す

Aさんは約束の時間に、可愛い花籠をもって来てくださった。楽しい語らいと、議論と、みことばの数時間。彼女とはいつも喧嘩のような本気の議論になる。この鈍くさい私が、丁々発止と議論ができること自体がとても不思議。

「どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。」(マタイ10:19)

彼女は家の宗教であり、いつもお坊さんが拝む言葉の内容をちゃんと知りたいのだという。知ってどうするのかというと、それで納得をしてから自分で正しい方を選ぶのだと・・。そう言いつつも、「イエスさまとは違うけれど・・イエスさまは神様だから」とも言う。

「それは罠だよ。知り尽くすことなんていつまで経っても出来ないよ。あなたはそんなに賢くはない。敵の方がはるかに賢いから、自分の知恵で勝つことなんて出来るわけがない。時間は限られている、今の時を何に使うかということが問題なのよ。」
「それって、聖書さえ読んでいれば良いと言うこと?」
「この時間にできることは1つしかないのだから。あれもこれもは選べない。この時間にイエスさまを知ることを選ぶなら、それは価値のある捧げものとなり、その犠牲にイエスさまは応えて御自身を知ることが出来るように導いてくださる。

この世の人もいろんな良い言葉を話すけれど、それはなんの保証もない、いのちのないただの言葉にすぎない。どんなに時間をかけてそれを聞いてもなんの役にも立たない。イエスさまがいのちの犠牲を払ってくださった聖書のことばとはレベル、ステージの違うこと。最良を選んでほしい。」

彼女のプッとふくれた頬がちょっと弛んだ。安心をして話せるのは、イエスさまによってつながれている長い付き合いがあるから。イエスさまが彼女との間に居てくださっている確信があるから。

それから、二人で聖書を読み、みことばを学び、今まで主が彼女を導いていてくださったことなどを話し合った。「確かに、私は折々にイエスさまに導かれ助けられている。」Aさんはそんな告白を残し、次は創世記1章を知りたいからと言い置いて立たれた。


そんな遣り取りの間に、頻繁にチャイムが鳴ってケーブルテレビの工事の人たちが出入りする。「すみませ~ん。古い設備の回収で・・をさせてもらってもいいですか。」「どうぞ」何回も次々と理を言いに来るので、落ち着かないなあ・・と二人で苦笑をしていたが、彼女を送り出して、工事の箇所を見て驚いた!今までとても苦にしていた頭の上のケーブルが無くなっていた!

それは、以前町内のケーブルテレビ工事の時に、断り切れなくて承諾してしまい、お隣との境界に通してしまったケーブルだった。境界とは言ってもほとんど我が家の上を通り、そのケーブルの下は台所に近く、いつも私が居る場所。それに将来息子が家の工事をするときにも禍となるだろうことが考えられて、ケーブル会社が変わり、新しくなるのをきっかけに撤去して欲しいと伝えたけれど「そんなことをしたら、この地域のテレビは見られなくなりますよ。」と冷たく断られていたのだった。

主人はもめ事が大嫌いだし、正面だって争うことはできず、ひとりでそっと祈ってきたことだった。私は家に入ると「主よ。あなたは生きておられます。」御名を崇めて畳にひれ伏した。

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