神は仰せられた。
「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしが、あなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。
翌朝早く、アブラハムはロバに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとを一緒に連れて行った。彼は全焼のいけにえのための薪を割った。
あなた方はロバといっしょに、ここに残っていなさい。
私は子どもとあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻ってくる。
アブラハムは、「私と子どもは戻ってくる。」と言ったが、どのようにしてイサクが戻ってこられるのかは知らなかった。
「主の山には備えがある」ことは経験から知っていたが・・。
アブラハムは全焼のいけにえのための薪を取り、それをそのこイサクに負わせ、火と刀をを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。
壮絶な旅である。全焼のための薪を捧げものであるひとり子に負わせ、父は屠るための刀と焼くための火を持っての旅である。
イサクは父アブラハムに話しかけて言った。
「お父さん」すると彼は、「何だ。イサク」と答えた。
イサクは尋ねた。
「火と薪はありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」
アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。
アブラハムは主から聞いた言葉に留まることだけを考えて進み、イサクが約束の子であることに安息していたのだ。
主に聞き従うためには、そのすべてが神から発したものであるという確信はが必要である。
ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上の薪の上に置いた。
此処を読む度、いつも思う・・。
イサクは何を思っていたのだろうと・・、遠くの道のりを、全焼にするほどの薪を負って旅ができるのだから、抵抗することもできたであろうに。
父の言葉を信じていても、いけにえの羊は見えず、縛られて薪の上に置かれたのだ。
彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。
ほふり場に引かれて行く小羊のように、
毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、
彼は口を開かない。(イザヤ53:7)
このイサクの静かさに、十字架のイエスさまを思い出す。
御父のことばのままに捧げ物となってくださった方を・・。
アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。
その時、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります」
御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。今、わたしはあなたが、神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしに捧げた。」
イサクは救われたけれど、神は愛するひとり子イエスを人の身代わりに殺された。
私たちの罪はそのようにして購われ、私たちは永遠のいのちを賜った。
あなたを大いに祝福し、あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである」(創世記22:18)
今アブラハムの信仰によって、信じるすべての者が神の祝福を受けている。
主が「捧げよ」と言われるものには途方もない価値があるのだ。イサクは静かにしていた分の祝福を生涯受けた。御手に委ねられた子どもは幸いである。
しかし、それは時に壮絶な旅を経験するのだろう。
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