石ころ

信仰の友 (ルカ24章)




ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、
この一切の出来事について話し合っていた。
話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。(ルカ24:13~15)


 死んでよみがえられたイエス様が、エマオの途上で二人に現れてくださった。この弟子たちの名前は聖書には書かれていない。だからそれは私たちのことでもある。
イエス様は、彼らと共に歩いてみことばを解き明かしてくださった。誰とでも何時でもみことばを語っている時、そこにイエス様も居てくださる。

私も主にある姉妹に開かれたみことばを聞いて貰うことがある。その時は、侃々諤々(カンカンガクガク)とみことばが交錯して、的を射たり、広がりすぎたり、ちょっとずれたり、あやふやな時は「ちょっと待って、ちょっと待って・・調べるから。」などと言うことになる。
その間に宅急便が来たり、生協が来たり、洗濯物の世話があり・・、そんな主婦の暮らしのど真ん中で、日を置いて時間をおいて、納得の行くまで交わることになることがある。

一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。(マタイ27:44)
一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。(マルコ15:32)
 
先日もこの箇所から「強盗は二人ともイエス様を罵ったね。このことをどう思う?」との姉妹の言葉から、またあれこれと調べたことがあった。
話しの途中で彼女の夕食準備が迫っきて電話を切ることになったが、これも何時ものことでこれで終わってしまうわけではない。

 注解書には「悔い改めた。」と書かれているものがあったけれど、私は腑に落ちなかった。それというのも「この方は何も悪いことをしていない」という明確な証言が何処からでてきたのか・・と思ったからであった。
家事をしながら思い巡らせている時、みことばが浮かんだ。
「人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」(マタイ12:32)

彼は確かに一緒になってイエス様を罵った。けれど、聖霊に触れられた瞬間、イエス様は罪のない神のキリストであることを知ったのだ。イエス様を一番よくご存じの方に聞いたので、彼の証言は力強いのだ。
人々と一緒になってイエス様を罵ったけれど、聖霊に触れられた瞬間「アーメン」と向きを変えたのだ。

強盗が救われたのは、知らされたことを即座に口にして告白し、
「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」(ルカ23:42)
礼拝して身を委ねたからであった。
そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。(ルカ23:42)

私はそのことを姉妹にメールでお伝えした。
彼女から納得メールが帰って来た。
「マタイ12-32 この事に対する的確な答えです!
みことばをありがとうございます。」

 イエス様に感謝、私たちは交わりの中でいつもイエス様を見ている。
答えがあるときも、無いとき・・それは「ちょっと待ってね」ということなのだけれど、共に主を味わってその時間を楽しんでいる。話して居るときも、ちょっと音沙汰のないときも・・。

二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。(ルカ24:32)

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