石ころ

信仰の在りか(ルカ24章)




 女たちは十字架のイエス様から目を反らせず、葬られるときも墓まで行って見とどけた。
彼女たちは自分にできることを、安息日の掟をも重んじて粛々と行った。
動けない安息日が明けるのを、彼女たちはまんじりともせずに待っていたことだろう。明け方早く飛んできたことからわかる。
おめおめと処刑されて死んでしまっても、たとい墓に葬られても、イエス様を愛することにはなんの変わりもない女性たちであった。

見ると、石が墓のわきに転がしてあり、
中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。
そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。
婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。
あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。
人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」(ルカ24:2~7)


天使の言葉に、イエス様のみことばを思い出した彼女たち。
その知らせを受けても信じられない弟子だったが、ペテロは走って行って墓が空であることを見てそのまま家に帰ったとある。まだ彼には証言する力がなかったのである。

 エマオの途上にあった弟子にイエス様は言われた。
そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、
メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」(ルカ24:25~26)


イエス様が用いてくださる者は、悟りのある利口な信仰者ではなかった。物わかりが悪く、心が鈍く、不信仰な者である。
その私たちにすべての事を通して、ご自身を見せて触れさせ霊の目を開いて「高い所からの力」である聖霊を送ってくださるのだ。

 それまで聞いていたみことばは、亡霊のような・・幻のような・・彼らには正体のないものであった。
今、私たちにとってもそのようなものであるなら、霊の目が開かれて確かに実感できる言葉とされる必要がある。
みことばの約束が、日々の暮らしの中で見るように、触って経験するような近しい力でなければ、主がご真実ええあることを知ることは出来ず、信仰生活があやふやに迷走することになるだろう。

イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。(ルカ24:36)

聖書をこのページから一枚めくると、
初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。(ヨハネ1:1~3)


言はイエス様である。イエス様の言は幻ではなく私たち自身と宇宙を創造した力なのだ。此処に平安、平和、確信による力あり、信仰がある。

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