聖書では、弟子たちが「無学な普通の人」であると書かれているけれど、それって現代ではどういう人なのかなあ・・「普通」の基準ってなにだろう・・。
小学校、中学校は義務教育だから普通。高等学校は普通以上なのかな・・高等だから普通ではない?でも今や日本では普通でしょう。
では、大学を出ていることは普通以上なのだろうか?普通以上なのだろうなあ。でも、普通以上の教育を受けているということが、普通以上の人格を有しているということではない。このレベルでは普通以下である人がわんさか居る。
人格のレベル?この基準は難しい。学問が人格のレベルを上げるとは私はあまり信じられない。けれど私は子どもに出来る限りの学問を受けさせようと懸命になった。それは彼らが「無学な普通の人」じゃなくなるためではない。
彼らの中に、神様が備えてくださったであろう、生きるための手段としての能力を引き出すための学問を求めた。この世で与えられたいのちを生きるために、神さまが備えてくださっている能力を発見するために求めた。それは掘り起こすものだと思うから。
合格しやすい学校を受験するのではなく、その当時人気のある職場に近づくためでもなく、ひとり一人に神さまが与えられた生きる力、この世で生きる手段を発見するために教育はあると思うから。でも、その高等教育を受けても、それで普通以上になるわけではないと思う。その能力を用い続けていくときに、いつか知らず知らずにその道で「有学な普通以上の人」になっているのだろうなあ。
でも、それは「その道」であって、「無学な部分」が大半なのではないかなあ・・。それは生きて行くにはそれでそんなに困らないだろう。むしろ「無学な部分」がある方が何時までも学ぶ、知る楽しみが残るから、感動することができて楽しいのだろう。
また、自分が知らないことを教わるとき、尊敬することを学び、謙遜を学ぶことができる。このことと人格とは関係がありそうだと思う。
死ぬまで無学な部分があることは楽しそうだ。それは新しい出会いがありそうだから・・。
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