石ころ

はっきり見えるようになるまで(マルコ8章)





 イエスは弟子たちを呼んで言われた。
「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。」
「こんなへんぴな所で、どこからパンを手に入れて、この人たちに十分食べさせることができましょう。」(マルコ8:1~2.4)

6章とまったく同じ弟子の反応に驚くけれど、考えてみれば私たちも度々主の備えを経験していても、何かある度に主の豊かさを忘れてしまうことがある。この時の弟子と同じレベルなのだろう。

手持ちのパンが5つであっても7つであっても、食べる人が何千人何万人であろうとも、主の豊かさを通す時、食べきることは出来ず有り余るのだ。主のたまわりものは人は使い切れない。1タラントも1タラント分の能力では使いきれないと思う。

 パリサイ人たちがやって来て、イエスに議論をしかけ、天からのしるしを求めた。イエスをためそうとしたのである。
イエスは、心の中で深く嘆息して、こう言われた。「なぜ、今の時代はしるしを求めるのか。まことに、あなたがたに告げます。今の時代には、しるしは絶対に与えられません。」(マルコ8:11~12)


信仰のないパリサイ人に、しるしが示されたら彼らはそこで終わる。信仰のない所でしるしを見ると言うことは、信仰を永遠に失ってしまうことである。しるしを見てしまってからの告白は信仰ではないから・・。

 弟子たちは、パンを持って来るのを忘れ、舟の中には、パンがただ一つしかなかった。
そのとき、イエスは彼らに命じて言われた。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい。」
そこで弟子たちは、パンを持っていないということで、互いに議論し始めた。(マルコ8:14~16)


この時、イエスさまはパリサイ人のパン種(宗教)、ヘロデのパン種(世)に気を付けなさいといわれた。それらに拠るやり繰りに気を付けなさいと言われる。
イエスさまは5つのパン、7つのパンを捧げる信仰を用いてくださるが、ただ1つしかない弟子にキリストの信仰を満たしてくださる。

イエスは盲人の手を取って村の外に連れて行かれた。そしてその両目につばきをつけ、両手を彼に当てて「何か見えるか」と聞かれた。
すると彼は、見えるようになって、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます」と言った。
それから、イエスはもう一度彼の両目に両手を当てられた。そして、彼が見つめていると、すっかり直り、すべてのものがはっきり見えるようになった。(マルコ8:23~25)


イエスさまが唾を使って癒される時、まるで親しい者への口づけのような、関係をもって癒される温かさを感じる。
此処で癒された盲人と弟子が重なる。ペテロの突然の告白は、イエスさまが見えるように癒された結果なのだ。

するとイエスは、彼らに尋ねられた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えてイエスに言った。「あなたは、キリストです。」(マルコ8:29)

イエスさまは弟子の目を開かれる。時間をかけて、ぼんやりではなくはっきり見えるようになるまで・・。弟子ははっきりイエスさまを見る者である。
はっきりみことばを聴いて、はっきり世に話すものである。ぼんやりであってはならない。キリスト者の標準がぼんやりとしていては、パリサイ人のパン種や、ヘロデのパン種に堕ちて行く。

それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。(マルコ8:31)


みことばは永遠のゴールを示すものである。キリスト者はそのみことばを、自分の十字架と掲げて御足跡を辿る。再臨の喜びを胸にして・・。

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