病弱な人に「完璧な健康」を示しても、それによって完璧な健康を得ることはできない。彼は生まれつき弱さを持っているのだから。彼の体が遺伝によってもそのように出来ているのならなおさらに・・。
そこで、「しかし、あの人よりはずいぶんマシだ」と言う逃げ道を作って生き、あるいは、共にこの苦しみを分かち合いましょうと言う。
律法は「神の義」を人に示した。しかしアダムの血筋にある人には、産まれながらの罪の性質にあって、完全な善を行うことが出来ないのだ。神はなぜできないと分かっていることを示されたのか・・。
それは、神がやがて子として迎える者のために、養育係として律法を与えご自身の聖さの基準を教えようとされたのである。
子が親を知らないままでは、完全な親子ではないからである。
神様は初めのご計画通りにひとり子イエスを遣わし、十字架に律法を完遂させて人の代表として下さった。
このあがないを信じる人は、イエスに一つとされてその聖さの中に入れられた。
「人にはできないことが神にはできる。」(ルカ18:27)
これはただ信仰によることである。だから信じる者のその聖さは完全なのである。
しかし、人は、律法という物差しを他人を計るために用いて「あの人よりはまし」とそれを比較するための道具とした。
また、自分に対しては「明日は、今日より良くなろう」という努力目標として祭り上げてしまった。
此処には真摯に罪に向き合うことはなく絶望もない。死ぬまで続く明日という逃げ道があるからである。
神の救いは、自他に頼る希望に在るのではなく、自他への絶望の中にこそ脱出の道が備えられてある。
神の基準である律法は当然良いものである。しかし、人には遠く及びも付かないものなのである。
ただ一つの希望は十字架の死を通して、罪の遺伝子を持たないキリストと共に生まれ変わったという信仰にあるのだ。
その時、すべての罪の重荷から解き放されたことを確信して、聖霊の導きに拠って「アバ、父」と神に向かって呼ぶようになる。
これが創造主なる神が、律法と良心を人に与えられた計画の完成である。
しかし聖霊に拠らなければ人にはわからない。明日に空しい望みをかけいる内に突然の滅びを迎えることになるのだ。
それは、イエス・キリストという名を知っている人にも同じである。
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6:33)
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