これらはアロンの息子たちの名で、彼らは油注がれて祭司職に任じられた祭司であった。
ナダブとアビフは、シナイの荒野で主の前に異なる火を献げたときに、主の前で死んだ。彼らには子がいなかった。それでエルアザルとイタマルが父アロンの生存中から祭司として仕えた。(3~4)
主に選ばれた者であっても、それぞれにどのように生きるかの自由を持っている。たまわった自由の中で、神を愛しみこころを求め続けるとき、その人は主の喜びとなるのである。
ナダブとアビブは異なる火を献げて主に打たれて死んだ。主はそのことをもって、父アロンを退けることはなかった。アロンが、ナダブとアビブへの主の裁きに服したからである。
親や子兄弟が罪を犯したとき、主の裁きに従順するなら、主の御愛が変わることは無く、祝福のご計画は遂行される、ということが此処から分かる。
神はひとりの信仰を用いて家族を救い出し、いのちの祝福をたまわる約束をくださった。
神は汚れを見過ごすことは無い聖なる御方であるが、御子をもたまわるほどに愛していてくださる。
今、主の裁きに服することが出来るのは、御愛を味わっているからである。ひとり子の命をたまわるほどに愛された者として、我らもまた、愛する者を、御前に差し出すことが出来るのである。
二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)
神はすべての人類の罪咎を、罪なき御子イエスの命によってあがなってくださった。それも強盗と共に、不名誉でむごたらしい裁きによって、すべての人の過去、現在、未来の、罪の代価を支払ってくださったのである。
地では不名誉な死であるが、天においてはキリストを信じる者を、滅びの死から解放して、創造主の栄光が現される死である。
キリストの十字架のあがないを信じる者は、ただそれだけで、神の完全な赦しをたまわり、いのちと、神の子とされる永遠の祝福をたまわるのである。
あなたは、アロンとその子らを任命して、その祭司の職を守らせなければならない。資格なしにこれに近づく者は殺されなければならない。(10)
主に仕えて働く資格は神から来る。それは神の、初めのご計画を成すためである。人の能力や人柄によることではなく、主に養われて働くときに、必要のすべてをたまわって働くのであり、聖霊に導かれて成すことである。
すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(ローマ11:36)
主はモーセに告げられた。
「見よ。わたしは、イスラエルの子らのうちで最初に胎を開いたすべての長子の代わりに、イスラエルの子らの中からレビ人を取ることにした。レビ人はわたしのものとなる。(11~12)
主に選ばれたレビ人は主に仕えるために造られ、すべての人は、主の栄光を現わすために生まれたのである。
愛して母の胎で組み立てられたことを知るなら、喜びと感謝によって、造り主を褒めたたえて生きるのである。それはなんと清らかで、幸いな命であろう。
長子はすべて、わたしのものだからである。エジプトの地でわたしがすべての長子を打った日に、わたしは、人から家畜に至るまで、イスラエルのうちのすべての長子をわたしのものとして聖別した。彼らはわたしのものである。わたしは主である。」(13)
主は反抗するエジプトのすべての長子を打たれた時、従順するイスラエルの長子を守られた。創造主に守られる命は神のものである。すべての命の造り主にはすべての命の権利を持っておられる。
今キリスト者はキリストの聖い血によって、過去、現在、未来の罪を完全に洗われ、世から聖別された祭司である。
この事実を信じない良心は汚れており、それは罪に囚われて、みことばに信頼せずに、キリストの十字架を軽んじているのである。
私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。(ピリピ1:21)
キリスト者は、造り主のために生まれ、救い主のために生きて、備えられた天の住まいに帰る者である。そう、その死ほどの益がどこにあろう。
人はそのために生まれ、創造主の栄光を現わして生き、時が来たら世の労苦から解放されて、御許に召してくださる。それは晴れやかに、もろ手を挙げて天にゴールインするのである。
主人は彼に言った。「よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」(マタイ25:21)
彼らは、ほめことばをもって天に迎えられ、千年王国で、名誉な働きをたまわるであろう。それは主と共に働くという、想像も及ばないほどの歓喜の時である。其処では妨げるものは何もなく、すべての良いことが行われるのである。