聖霊に拠らなければ、キリストの十字架による救いも、真に自分の記憶とはならない。
十字架の御救いによって過去、現在、未来の罪は完全にあがなわれて、神の御前に義とされていることが、聖霊のバプテスマによって明確に自分のものとなる。
どんなに知識と教えを尽くしても、それだけでは、サタンの脅しに対抗してみこころを行うことは困難である。それらは感情を用いて肉を掻き立て、支配するからである。
聖霊のバプテスマによって自分のうちに礼拝の場を持っており、主との祈りの交わりが絶えずあり、そこではいつも主を喜んでいる。また、如何なる状況に在る時も、赦された感謝は少しも変わらない。
神は霊ですから、神を礼拝する人は、霊と真理によって礼拝しなければなりません。(ヨハネ4:24)
サタンの脅しにも、人の責め言葉や、自分の失敗にも動じることのない平安と感謝は、聖霊のバプテスマによって、赦され新しくされた霊、魂、体の記憶によることである。そのとき永遠に至る道筋が平らに真っ直ぐに見えるのだ。
夜昼、寝たり起きたりしているうちに種は芽を出して育ちますが、どのようにしてそうなるのか、その人は知りません。(マルコ4:27)
信仰を成長させるのは、キリストによって救われたいのちの力である。救いの確信は世で磨かれ、困難と問題の中でみことばの真実を経験し、主への信頼が育てられて行く。
イエスは彼に言われた。「わたしに何をしてほしいのですか。」すると、その目の見えない人は言った。「先生、目が見えるようにしてください。」(マルコ10:51)
イエスは訊ねてくださっている。私たちは霊によって、主をはっきりと見るために求めなければならない。見えていないのに見えていると言ってはならない。
求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。(マタイ7:7)
日々聖霊によって教えられるみことばに、思いを巡らせて反芻するうちに、みことばはキリスト者の血となり肉となって成長している。日々の変化には気づかなくても、時が来たら肉からのものを捨て去り、みことばを受け取って真っ直ぐにみこころに向かって行く。深く主の霊とつながった根が平安を支えているからである。
十字架による救いの確信が無いと、聖書の中の赦しに出会う度に、みことば以外の理屈を考えて納得しようとする。
しかし、キリストの十字架に拠る赦しは、聖書の過去、現在、未来に渡っても、人が付け加えるべき条件など何もなく完璧なのである。
御救いに与った者には、何ものの訴えに対しても動じることのない平安がある。それは自分のうちにあるものにはよらずに、聖霊によって刻まれた十字架の記憶に拠ることである。それがキリストにたまわった救いの十字架。
滅びに至る罪科の十字架はキリストが完了してくださった。御救いを信じてキリストを受け入れた者に、聖霊のバプテスマはそれを自分の経験として、赦しと、罪からの解放をを刻み込んでくださってある。
良きも悪きも自分由来のものから解放され、キリストが成し遂げてくださった完全な救いの十字架を高く掲げて、感謝の軽やかな足取りで、永遠に至るまでの従順を私たちは可能にされているのである。
イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。(マタイ16:24)