イエス様がお弟子を招かれた聖書の記述は実にあっさり書かれている。もったいぶったストーリーのひとつもなく、彼らはそれまで築いてきたすべてを一瞬に捨てて、イエス様を主と定めて付いて行った。これは本当に全身全霊の「アーメン」
イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。
また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、
すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。(マルコ1:16~20)
彼ら四人の人生がこれだけで決まった。
この直前まで楽しみにしていた事もあっただろうし、気遣っていた人もあっただろう。親や家族に対する責任も愛も瞬間に捨てて、初めて出会った主のおことばを選んだのだ。
ほかに、弟子の一人がイエスに、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。
イエスは言われた。「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」(マタイ8:21)
彼の名は聖書に無い、まず家族を選ぶ者は主にふさわしくなかったのだろう。
実は、弟子はイエス様に家族をお任せすることで、主は家族ぐるみ愛してくださるのだ。これほど心強いことはない。
シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。(マルコ1:30)
イエス様は学者のようには話されず、権威によって話された。権威には力が伴うから、病人も悪霊からの解放もみことばひとつで成る。
でも、そのことによって人はイエス様の目的を勘違いをしてしまったように思う。
イエス様の宣教のことばに耳を傾けることよりも、目先の奇跡が目的となって押しかけたからである。
彼らは目先のことしか考えられないのだ。今の苦痛を取って貰うこと、今の必要を満たして貰うことだけ。
永遠を思うことも求めることもない。これが普通の人なのである。
しかし、お弟子は「人をとる猟師」というみことばの目的に従った。こんなわけの分からない言葉に即従うなんてあり得ないことである。
このことは、彼らの内にあらかじめ備えられた神の選びによることなのだ。彼らはその導きに直ぐ心を開いて受け入れた。「人の正しさ」は此処にある。
あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。(ヨハネ15:16)
今、私たちが主を求めみことばを知ることも、始めに神の備えから出たことであるなら、なんと厳粛なことだろう。なんとありがたいことだろう。
わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。 (黙示録1:6)