石ころ

罪を赦す権威 (マルコ2章)




イエス様が世に来られたのは弟子を求めてであった。「神に応答する」という、人に取って唯一の良い行いを求めて来られた。だから、救われる者は多くはないのだろう・・。少しも難しいことではないのだけれど。

それでも、イエス様は人々の一欠片の信仰をもすくい上げようとしてくださっている。

しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。
イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。(マルコ2:4~5)


体の癒しだけでは意味はない人は必ず一度死ぬ者である。イエス様は始めに罪の赦しを宣言された。それこそ永遠に変わることのない救いに至ることである。
それは律法学者の言うとおり神にしかできないことである。それも十字架で彼の罪をあがなってくださるイエス様だからできることである。

病人を運んだ人の行いを用いてイエス様のわざが行われた。そこで神の御名があがめられた。すべて神の御名があがめられることによって完全となる。



 イエス様は猟師や徴税人をお弟子とされた。決して評判の良い人たちではなかったろう。ただ、彼らは御国からは最も遠い所にいると、自分を悲しんでいた人たちであった。
だからイエス様のお言葉に即座に従うことができたのだ。彼らは目をギラギラさせてキリストを待っていたのだ。

「私は満ち足りている。私の信仰に足りないものはなにもない。」と言って、人が好きなように手垢にまみれさせた律法を、布団のようにかぶって眠っている人は、神のわざも愛も見ることはなく彼らが新しく生まれることはない。その必要を彼らが覚えることがないからである。

 この病人はみことばどおり、すぐに起きあがり床を担いで出て行った。
主はご真実だから、命令されるときは必要な力が備えられている。神のわざを見ると直ぐにあがめ、主に招かれたときは直ぐに立って付いて行く。それは幼子でも可能なほど単純なことなのである。

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