石ころ

手放す祈り




 先日来祈って来たこと。
二度と若者たちに人を殺すこと、殺されることが強いられる世が来ませんようにと・・。優しく育てられ温かく成長した若者に、そんな無残なことが起こりませんようにと。国がそんな方向に進まないようにと主に哀願していた。

今は。戦争の準備は「平和」を連呼して行われ、原発の準備は「安全」を連呼して行われる。言葉が軽んじられ、言葉が欺きの道具となっている。
その結果を負わされるのは、すでに何も反論出来なくなってしまった時代の子供たちであろうから・・それは辛く申し訳ないことである。

昨夜も今朝も「主よ。あなたにはどんなことでもおできるではありませんか・・」と祈った。
その時、毒麦のたとえが(マタイ13章)心に浮かんだ。
毒麦を麦と一緒に抜いてしまってはいけないから、収穫(裁き)の時までそのままにしておきなさいという。

確かに、息子達もこの世と深く関わりながら生きている。今の政治と深く関連する中で働いているのだ。それは、地中で根が絡みあっているように、世ではすでに運命共同体のようなものなのだ。
世に生きることはそういうことであるから・・。

今は麦を抜き取るときではないということ、時は主が定めておられることであるから・・。確かに、その時間は誰にとっても必要な猶予であることはわかる・・。息子達の信仰のためにも時間が必要なのかも知れない。
それは、主が忍耐して待っていてくださるのだ。


 祈りを終えて洗濯物を干すために立ったときには、すべての裁きを主に委ねて、今日何が起ころうとも動じることのない平和を頂いた。
この世の事はこの世限りのことであるから・・。

不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚れた者は、なお汚れるままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ。
見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。
わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。(黙示録22:11~13

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