石ころ

使徒の働き ⑥(4~5章)

 

 聖霊のもたらせる豊かさ

 

信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。
使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。(32~33)

 

神は生まれたばかりの教会を聖霊に満たし、そこには何一つ足りないものはなく恵みに満ちていた。

神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6:33)

 

心と思いが一つの中では、皆すべての恵みからもれる者は無かった。
聖霊の豊かな愛に満ちて働く時、イエスを伝える言葉も豊かに備えられ、力に満ちて聞く人々に真っ直ぐに届いて行く。

 

彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、
使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。(34~35)

 

貧しくなかったのは、人に分け与えられた「から」ではない。「分け与えられたのであった」(2017)分けられたのは結果としてである。この違いは大きいことである。

 

人は将来の不安のために自分の財産を守ろうとする。神の養いの豊かさに在って、永遠の富を知る弟子たちには、そのような必要は無くなり、むしろ、自分のすべてを用いて主の喜び分け合うことを願ったのだ。

 

神にある家族として時を共有し、持ち物も、暮らし向きも共有して、自分の財産をこの日のために神が備えてくださったものとして差し出し、共に神をほめたたえ喜びたかったのだ。

 

それは生活のために財産を差し出したのではなく、神の豊かさにあって皆の喜びとするために、すでに余りものとなった財産を分かちあったのである。これは共産主義のようではなく、すべての必要を神に信頼した神の国の共有である。

 

それは彼らが使徒の足元に、今で言えば数千万にはなろうというものを、人の目の高さに置くのではなく、足元に置いたことでわかる。
その行為は、彼らが大きな犠牲を払ったと感じていないことを現わしている。神の家族の喜びが、捧げものに勝る大きな喜びのゆえである。

 

 サタンが持ち込む欠乏

 

ところが、アナニヤという人は、妻のサッピラとともにその持ち物を売り、
妻も承知のうえで、その代金の一部を残しておき、ある部分を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。
そこで、ペテロがこう言った。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。(5:1~3)

 

完全な神の教会に、アナニヤ夫婦が持ち込んものは欠乏のパン種である。信仰の無い行為は、教会をそのようなものと量って貶めた行為であり、聖霊を侮って誤魔化し、聖徒の捧げものもその程度のものと量って汚したのである。

 

「それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」
アナニヤはこのことばを聞くと、倒れて息が絶えた。そして、これを聞いたすべての人に、非常な恐れが生じた。(5:4~5)

 

彼らが財産を持っていることを責める者は誰もいなかった。すでに皆、満ち足りていたからである。
自分の信仰の欠乏は自分で負うほかない。救いに導く聖霊を侮った彼らには、もう力ある助け主はおられない。

聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」(マルコ3:29)

 

それまでの平和で喜びに満ちていた教会に、彼らの死は非常な恐れを生じさせることとなったのである。それは神の計画されたことではなかった。


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