幼子はいつも、出来ないことに向かって頑張る。初めてのことに興味津々で夢中になって挑戦を続ける。親の真似をしようとして、泣きべそを掻いても止めてしまうことはない。
その一つひとつの経験は幼子には命懸けの冒険。それは失敗したときに、抱きしめてくれる人があるから、何度でも立ち向かって行くことが出来る。
母に抱き上げられる安心は、母から離れた時に経験できる。転んで介抱される優しさは、駈け出して経験できることであり、守りの手から出て冒険しなければ、そのような愛を味わうチャンスはない。
そんな我が子の頑張りを親はいじらしく思って、そっと手を添え、背を押し、成し遂げられるスチェーションを準備したりもする。出来た時は一緒に大喜びをする母を見て、健やかな自信と勇気を身に付け成長するのだ。
沢山失敗をして、痛い目を見て、挫折を味わいつつ、今日は「出来た!」ことによってすべてが益となり、障害物を乗り越える忍耐と力が身に付くのである。
みことばを告白しつつ世を生きるキリスト者は、主の幼子である。
示されたみことばに震えつつ、「アーメン」と自分に言い聞かせる時があり、身の丈よりも遥かに大きなみことばの杖を差し出して、高い城壁を飛び越える時がある。
解かれたみことばが人から聞いたことではなく、主に教わって初めて知ったことゆえに、恐れが胸を締め付けるのである。そんな時は、心のうちで失敗と不足によって打たれる備えの首を洗い、ドキドキと主を待つ緊張を経験もする。
それらの日々に主のまなざしは私たちを離れず、御手は失敗して落ちて行く先に伸べられてある。御手に落ちた時の甘さを経験する中で、主は私の砦と叫び、主は私の力と告白して、言葉にならぬほどの賛美が溢れ出るのである。
創造主なる神のみことばは、人の間で言い伝えられているような、賢い言葉などとはまったく価値観の違うものであり、それは人が聞いても理解できないか、「また、いつか聞こう」とあしらわれてしまうものである。
神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。(Ⅰコリント1:21)
信じない者には愚かなみことばをそのままに語り、キリストを告げ知らせるようにと召されているのは、救いはみことばを解き明かす聖霊によって、聴く人の霊のうちに直接届くからであり、これは神のわざである。最大の奇跡はみことばを聴いてキリストを信じることにある。
職業としてならともかくも、普通の人が嘲けりの十字架を負って語り、自分の好みには拠らずに、導かれた誰彼に語るためには、当然無理をするのである。
人の肉性は神の救いに逆らうものなので、自然に口から出て伝わって行くことはないからである。
信仰者が、背伸びして無理をすることができるのは、キリストの愛をいつも味わっており、神がどんな時も砦となって守っていてくださることを、些細な無理の中で何度も何度も経験して、成長した結果である。背伸びをしてキリストを見上げキリストを真似ようとすることは、信仰者の生きる喜びでもある。