石ころ

日曜日にはイエス様のお話を聞く 2007.6.10


saltさんのメッセージ
「神がきよめたものをきよくないと言ってはいけない」 使徒10章

 ペテロはコルネリオに遣わされる前に、夢の中で単純な夢を3回も見ました。その幻が伝えたメッセージは「汚れた動物を殺して食べなさい」ということでした。

 何でも食べる日本人にとっては、それほど大したことのように思われないかも知れませんが、ユダヤ人にとっては、この食生活におけるタブーを破ることは、律法を軽んじることであり、神を侮る行為でした。さらに食生活においての律法を守ることは、ユダヤ人と異邦人を区別する具体的なしるしでした。このように同じ日常生活の規範を守ることで、ユダヤ人どうしの連帯は強まります。

そして、自分たちが気をつけて避けているものを平気で口にする異邦人は、ユダヤ人にとっては「軽蔑の対象」となるのです。イエスさまの時代のユダヤ人たちは、ローマの支配を受けていたので、ユダヤ人の屈折したプライドは、ますます形式的な律法重視や歪んだ愛国心につながっていきます。サマリヤ人に対する嫌悪も同じ根から生まれている感情です。使徒たちは、全世界に福音を宣べ伝えるべきことを聞かされてはいましたが、異邦人がユダヤ人と同じように救われるなどとは、全く考えていなかったのです。

 後に異邦人世界がキリスト教社会となってからは、ユダヤ人たちは、キリストを十字架につけた民として迫害されるようになります。面白いと思いませんか、人間の宗教というものは、全く唯我独尊で排他的なのです。ユダヤ教からキリスト教を見ても、キリスト教からユダヤ教を見ても、人間中心の考えから出てくるものは全く同じなのです。

 この「何を食べるか、何を飲むか」という問題は、異邦人が教会に加えられてからも、偶像に捧げられた肉をどう扱うかという問題へと発展していきます。偶像に捧げられた肉なんて言うと、現在の私たちとは直接関係のない話題だと思うかも知れませんが、この問題はクリスチャンがこの世にあふれる文化と関わっていく上で大事な鍵なのです。この点については、また機会を改めて詳しくお話しすることにしましょう。

 ペテロは、汚れた動物を食べることを拒みました。しかし、声がしました。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはいけない。」(使徒10:15)このことばが、コルネリオとの出会いと響き合って、ペテロは神さまの計画を理解します。汚れた動物とは異邦人を指しています。

要するに、「異邦人も神さまがきよいとされたら、きよいから受け入れなさい。ほら、たとえばこのローマ人を見なさい。」というわけで、非常に敬虔なコルネリオという人物と出会うのです。このような例を見ても明らかなように、神さまのみこころは、人間の考えとはかけ離れています。そして、すべての必要を私たちの願いや思いを超えて満たされるということです。神がきよいとみなすのです。私たちは自分をきよくすることは出来ません。そして、私たちの感覚や評価は関係ありません。

 私たちは、救われる人を捜しまわらなくても、出会うべき人たちに出会うように主がコーディネートしてくださるのです。これは、無気力・無責任な予定調和の発想ではありません。そのような大きく委ねる心を持って主に自分の計画を託すことです。

 人間はイベントやキャンペーンが大好きです。自分でがんばって手柄を上げ、達成感や成就感を味わいたいのです。聖書研究会や祈りや牧会や伝道そのものが生き甲斐なんておかしいと思いませんか。私たちはイエスさまのいのちの一部であって、皆が家族なんです。それで終わりです。いのちは放っておいても成長します。楽しい家族はべつに遊園地に行かなくても日常が楽しいんです。

 主はすべてのひとにとって主なのです。すべての人をお造りになった神は、ほとんどの人に忘れ去られ、無視されていたとしても、圧倒的な影響力と支配権をお持ちなのです。

「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」(ヨハネ1:3)

「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」(ヨハネ1:11)
主はすべての人をご覧になって、あらゆることを知っておられます。コルネリオの祈りのや施しはちゃんと主が覚えておられたのです。

 教会が人為的に世に対して影響力を持とうと張り切ると、おかしなパン種を持ち込むことになるのです。だから、イエスさまは「パン種に気を付けなさい」とおっしゃったのでしょう。

 イエスさまは、私たちがたった二匹の魚と五つのパンしか持っていないのは、初めからご存じです。私たちは何も仕込まなくてもいいのです。このボロボロの現状で、ただイエスさまだけを見つめて平安な心で感謝して待っていればいいのです。「えーっそんなことでいいの?」と思うかも知れませんが、それが出来なくて、いつも自分でやりくりしてジタバタするから、惨めさや欠乏を味わうことになるのです。私たちは、あらゆることに貧しいものです。しかし、主はあらゆることに圧倒的に富んでおられるのです。

 私たちは、自分の信仰によって、家族や友人がこうなってああなってといろいろ考えてしまいます。そして、私たちの教会は、もっとああなってこうなってと、これも思いめぐらします。イエスさまはきっとこの問題については、こんなふうに、あの問題についてはあんなふうに導いてくださるだろうと、祈りを重ねながらも青写真を描いたりもします。それは必ず人間が考えることです。

 しかし、そんな前向きな信仰のビジョンやイエスさま像さえ、偶像となり、サタンにつけ込む余地を与えます。ペテロはイエスさまがやがて受けられる苦しみについて示されたとき、そんなことは起こりえないと考えました。そして、イエスさまを引き寄せていさめ始めました。ペテロは、正しい信仰告白をした次の瞬間、自分中心の信仰の大風呂敷を広げ始めたのです。これは、人間が必ず陥る過ちです。

 ペテロはあらゆる点で使徒たちの魁(さきがけ)でした。一番始めに信仰告白をしたのもペテロでした。
「あなたは、生ける神の子キリストです」(マタイ16:16)この告白がすべてであり、この信仰が岩、すなわちペテロなのです。
イエスさまは言われました。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」(マタイ16:17)
つまり、ペテロが信仰告白できたのは、彼が誰よりも早く鋭く、イエスの神性を見抜いたからではありません。父が示し、気づきを与えてくださったからです。

 もう一度確認しましょう。イエスさまは何とおっしゃっていますか。ペテロに真実を明らかにしたのは誰ですが。父です。教会を建てると言っている主語は誰ですが。イエスさまです。
「父が与えた信仰の上にイエスさまが建てるのでなければ教会は建たない」のです。だから、人間が勝手に作った教団はくだらないことでもめたり、宣教師が勢いで建てていった教会の建物は空っぽになるんでしょう。

 次の瞬間、ペテロのキリスト像は、彼の偶像となりました。彼の伝道プラン、イエスさまの栄光への道の青写真は十字架ぬきのおめでたいものでした。十字架を通らないものは全部偽物です。イエスさまは、「下がれ、サタン。」と一喝されました。

イエスさまはペテロが憎くて叱ったわけではありません。しかしながら、ペテロなりの主への思いは、サタンのものだったのです。勿論、人間は神さまのロボットでも操り人形でもありません。全部が全部「自動的」「受動的」というわけではありません。ペテロは何もかも捨ててイエスさまに従った結果として、この地点まで導かれてきているわけです。私たちの側からは何をすべきなのでしょうか。「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、クリスチャンとして働きなさい」と言われていますか。「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」です。

 ペテロはイエスさまを愛しましたが、それは最後まで自己中心の愛でした。人は神の愛には応えられないことを学びます。しかし、あえて主はペテロに三度お聞きになりました。「あなたはわたしを愛しますか。」(ヨハネ21:15、16、17)

 私たちは完全な神の愛に包まれ、イエスさまのよみがえりのいのちを生きながら、この世を生きていくのです。不完全な人間は、完全なみことばを通して主のみこころを知り、それに自由意志で応答しながら道を定めていきます。どんなに慎重に歩んでも、私たちは時に失敗し、罪を犯し、人や神を傷つけるでしょう。でも、それでも常にいつも神の愛によりかかりたいと思うその思いを主は大切にしてくださるのです。

 かって、ペテロはガリラヤ湖で大漁の奇跡を見せられたとき、言いました。「主よ。私のような者から離れてください。罪深い人間ですから。」(ルカ5:8)
 
 しかし、もうそんなことは言いません。ペテロは、罪深い自分から主が離れて行かれてはどうにもならないことを学びました。もはや、自分の信仰でも、忠実さでもなく、ただ主の完全な愛のゆえに自分が生かされていることを知ったのです。ペテロはこう答えています。
「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」(ヨハネ21:17)と。

最後に、この時代背景における聖霊の働きについて整理しておきます。使徒の時代は、新約聖書が書かれていない時代です。ですから、そのような過渡期には、ペテロが見たような幻があったり、確かに聖霊が下られたとわかるような目に見える現象をともなったりと言うことがあります。

しかし、今日使徒を自称する誰かが、聖書の記述を否定するような新しい幻を見たりすることはありません。また、聖霊が下るときには、聞いていた人全員が異言を話すなどのしるしをともなわなければならないと考えたりするのは間違いです。使徒2章、8章、10章のしるしを伴う聖霊の記述は、ペンテコステ、サマリヤ、異邦人へという福音の流れと主のみこころを共通理解するためのしるしなのです。

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