石ころ

「人の子は安息日の主である。」(ルカ6章)




 イエスは彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた。その人は身を起こして立った。(ルカ6:8)
イエス様が律法を犯して安息日に癒されるか監視し、訴えようと待ち構えている彼ら宗教者たちに、イエス様はその人がよく見えるように、真ん中に立たせてご自身を証しされた。

「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」
そして、彼ら一同を見回して、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。言われたようにすると、手は元どおりになった。
ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。(ルカ6:9~11)
すると彼らはすっかり分別を失ってしまって、イエスをどうしてやろうかと話し合った。(ルカ6:11)新改訳

分別によって安息日を守り、イエスが律法を、神を冒涜していると訴えた宗教者たち。しかし、その分別を失ったときイエスを抹殺することを考えた。分別があってもなくても、自分たちの善悪の正体を暴くイエス様が邪魔であったのだ。
彼らにとっての律法とは、自分たちの正しさの道具でしかなかった。邪魔者は殺すという分別は恐ろしい。
分別も善悪の基準もイエスを主としない限り、人は心の中で誰彼を殺し続けることになる。

「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか」
主への従順がなければ、こんなに分かり易い言葉さえも選び取ることができなくなる。
神の戒めがこのようにねじ曲げられて、血も涙もない道具とされてしまっていることは、イエス様には耐え難いことであっただろう。。

 私たちの律法は生ける主のことばにある。
神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。(Ⅱコリント3:6)

イエス様は、人の病に伏せった日々、手の萎えた日々をあがなってくださる主である。失敗した人生もそれがたとえ自分の罪のゆえであっても、両親の罪のゆえであっても、イエス様は人としてその痛みをご存じであるから、それを見過ごしにはできないのである。
だから主は、押し寄せる人々をすべて癒された。それはまったく一方的な主の憐れみである。

イエス様は生かす福音を持ってきてくださった。
新しい革袋には真っ新にされ何も持たずに入って行くのである。
「古いものの方が良い」と世に酔っている者に、どうしてそのようなチャレンジが出来るだろう。主は、それらを持たない者の救い主である。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(Ⅱコリント5:17)新改訳

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