ラザロは何をしたのかと話し合っていた。ラザロは何もしなかった。ただ、置かれたところに居て、犬におできを舐められるままにして居ただけだった。何をしたかではなく、イエスさまと居たかどうかが問われるのだろうと話しあった。
金持ちも何もしなかった。ラザロを知っていても何もしなかった。
「わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」(マタイ10:42)
「アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。」(ルカ16:25)
メッセージで、「思い出してみなさい」という言葉の重さを教わった。それは滅びる者には裁きであり、もだえるような苦痛である。でも、救いを受けた者には、主と共にいた良き思い出じゃないかな・・。
難聴という弱さを持った息子は「思い出してみなさい」に対して、「私には多くの事例がある」と言った。
会社で苦しいときに共に居て下さった主を覚えている。だから、携帯電話を持とうともせず何処へでも出かけて行くことができるのだろう。共にいてくださる方に信頼しているからだろう。
私たちは、良いときも悪いときも、イエスさまとの思い出を重ねて行くことができるのだ。ハレルヤ!
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