イエスの御名の他に救いはない。それは、神のひとり子が十字架で磔になって与えられた救いであって、神の愛の現れである。
神の栄光は、その名がほめたたえられる所にある。
しかし、博愛の精神などとすべての宗教を受け入れるまやかし・・、そこでは何を喜ばせているのだろう。
その愛によって何が与えられるのだろう・・、せいぜいこの世のわずかな命を養うことでしかなく、その愛擬きは真の神の救いから、迷い出させてしまうものである。
キリストを知る者がそのようなことを行うなら、それはサタンの罠に嵌ってしまったとしか思えない。
イエスの十字架がないがしろにされる所にまことの救いはなく、永遠の滅びが待っているだけである。
たとえ、それがどれほど人の目に美しく見え、多くの犠牲が払われていようともである。
神を愛して始まったことであっても、途中からサタンに乗っ取られることもある。
イエスを告白するとき人々の白けた反応を恐れるなら、いつの間にか「イエス・キリスト」が明確に語られなくなるのだ。
それは、十字架の目的が失われることである。
それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(ピリピ2:10~11)
イエスの名が外されることは、生まれながらの人の魂を喜ばせる。人は神に服することを嫌ってヒューマニズムを好み、人に仕えるものとして神々を作る。
神を愛して始めたことがいつの間にか偶像とされ、神に敵対するものとなってしまうことがないように・・。そんなことが起こるのは、イエスの御名が繰り返し、繰り返しはっきりと伝えられなかったからである。それほどの悲劇はない・・。
イエスだけがほめられるべきであるのに、人がほめそやされることはサタンの罠である。
神の栄光を盗ませることほどのサタンの勝利はないのだから・・。
人は聖人にはなれない。人は何処まで行っても罪人である。
聖書がそうであるように、素晴らしい行いが語られるなら、それと同じだけ罪や欠点も語られなければならない。だからあまりほめられない方がよい。
聖書は言う、イエス・キリストの十字架以外に救いはないと・・。イエスをないがしろにする福音などありえないことである。
偏狭と言われようとも、ただ、イエスの御名だけを掲げて、決してそれを外さず留まり続けることこそ、私たちの礼拝であり、はっきりと主を指し示すことこそ真の愛である。
サタンは絶えずその名をかき消そうとしている。イエス以外のものを誉め称える罠を設けて待っている。
この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。(使徒4:12)
最新の画像もっと見る
最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事