主人の悪性リンパ腫は、小さくなったり大きくなったり・・。そうして3月25日の血液内科の医師によって、治療を考えるために生検をするようにと命じられた。
「もう少し様子をみたい。」と言っら、「今まで見てきたでしょう」怒鳴られた。なぜ、必要なことを説明してくれないのだろう・・。
ただ腫瘍が3㎝と大きく腫れてきていると言われても、それがそんなに差し迫った事なのかわからない。腫瘍マーカーが上がってきていると数値をまくし立てられただけでわかるわけもない。
なぜなら、今まで何ら治療をしていないのにもかかわらず改善したこともあり、腫瘍の大きさも数値も悪くなるばかりではなかったから・・
1年前に10年保証という言葉を確かに聞いていたのに、その言葉を撤回する理由の説明もない。だから言葉がこれほど変わるのはなんだ?って感じ。
もっともそれをまともに信じていたわけではないけれど・・。
人間が命の保証など出来るわけがないことは知っている。まあ、それでもあの時は肝臓癌という事実も抱えていたから、その言葉によってずいぶん落ち着くことができたのも事実。人の言葉にも主の備えはあるのだと思う。
肝臓癌が治って(決して治ったという言葉は使われないが・・。5㎜から縮小し、腫瘍マーカーが正常値以下に下がった)、
診察はもっぱら血液内科の方に移ったのだけれど、その直後から言葉が変わってきた。
26日に生検のための説明を外科で受ける事を一方的に決められた。
翌日また医大行き。元気だから出来る事、本物の病人なら無理だろう・・。
外科の医師の説明はとても親切で感動的だった。内臓の絵に腫瘍の位置を書き込んで説明文も付け加えてくださって、繰り返し説明をしてくださり、医大に通い始めて以来、始めてわかる説明を受けた。
今まで、チラッと写真を見せられて「ほら、これ。大きくなってきているでしょう」なんて言われても、何と比べればよいのかわからず、それが体のどの辺にあるのかわからず、それがどのような影響を与えるのか判断もつかない。
外科の医師は、私がちょっと遅れて診察室に入ったとき電話中だった。どうも内科医師に手術のことを説明されているようだった。
「いいえ、大手術になりますよ。80歳でその検査をする意味を聞きたい。」そのような内容だった。
それを患者の前で話されることに、彼の本意が伺われ心しておかなければならないと思った。
この腫瘍は抗がん剤が良く効くので、検査後に内科で検査結果によって抗がん剤治療をされますと知らされ、主人に「本人さんはどうしたいのですか」と聞かれたとき、「それは先生にお任せします」と答えていた。
「もう一度、膵臓癌の手術をしておられる先生から説明を受けてください。そのとき、子供さんかご家族の方にも立ち会って貰ったほうが良いですよ。」と忠告をしてくださった。
私は膵臓癌の検査から逃げ出し強引に退院した過去があるので、その手術がいかに大変であるか予想することができた。
主人の腫瘍の位置は門脈という重要な血管の側にあり、手術は肝臓や膵臓を持ち上げて、腫瘍を剥がし、その一部分を取るという大手術であると知らされた。
彼のしてくださった説明から、検査のリスクの大きさも良くわかった。そう、これは治療ではなくあくまでも検査なのだ。
今まで、私たちは息子達を巻き込みたくはなかった。
自分たちで考えて処理しようとしそれで大丈夫だと思って来た。イエス様がいてくださるから・・って。
でも、今回のことはその重大さによって、外科医の助言を受け流すことができなかった。彼の言葉の中にイエス様の配慮を感じたから・・。
長男に知らせると、「行けるように考えている」という返事が返ってきた。しかし、後日やりとりの中で返信のメールの時刻を見て驚いた。2時40分!
寝ていないのか・・前日に電話連絡をした時「今日は帰れないから・・」とか言っていたことを思い出した。
それでは連日寝ていないのではないか!驚いて「お父さんより心配だ。もういいから寝てください」とメールをした。
「今年度の期日が今週末までなので忙しいのだ。いつものことだから大丈夫。来週は暇になるから行ける」と返信があった。
予約は4月1日であり、滑り込みのセーフということに主の備えに感謝をした。
なぜ?と問えば限りなく「なぜ」がある。本当になぞばかり。
肝臓癌が治っても、悪性リンパ腫が残され、再び肥大して来たのはなぜ?
医大で医師に振り回され続けなければならないのはなぜ?
腫瘍がこれほど困難な場所に出来たのはなぜ?
普通の人ならそれらを、ただ運が良いとか悪いとかで理解するだろうけれど、すべてをご存じの主が関わっておられることを知って居る故に、すべてがなぞとなる。
ただ、先日主は教えてくださっていた。
人の知恵や知識によって、事の整合性を図るべきではないと・・。主のご計画はあらゆる矛盾のなかにも働いている。
そのような確信は、この行き詰まりの中にあって主人自身も私も、よく寝て、よく食べて、良く笑って、機嫌良く暮らして居ることにある。
病気がすべてを占めては居ないし、普通の生活を屈託無くできるという何気なさの中で、主の大きなお守りが、詩編91編のみことば通りに砦となり、覆う羽となって抱いていてくださっている。
それはあまりにも当たり前な情景の中にあるけれど・・。
「俺にはイエス様という強い味方がある。」主人がぽつんとつぶやいた。
いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。
私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神。」と。
主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。
主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。
あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。
また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。
詩編91:1~6
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