みことばに思いを巡らせて主に聴くとき、自分の悟りを残したままにしたり、その補強の為に主を待つ事は違っていると思う。
主の教えてくださることは、人の心に思い浮かんだこともないものだから・・。
最悪は、腹一杯に魂からの言葉を詰め込んで、補強するべく待ち構えることである。これはまさにサタンの餌となる。
思い巡らせるとは主と雑談するようなものであって、それは、思い込みもなく霊によって遊ぶことである。話すほどに考えたこともない結論へと導かれたりする。
まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」(Ⅰコリント2:9)
日々新しく語られることばによってキリストの形にへと造られて行くのだから、真の知識に必要なものは、昨日の知識へのこだわりをすてて、今日語られることばによって新しく主を知ることだと思う。だから、みことばは何時も新鮮なのだ。
新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。(コロサイ3:10)
それは時に、昨日の悟りに矛盾するかに思えるときがあるけれど・・それでよいのだ。
神は陶器師のようにご自分のお気に入りを造られる。形作ったり、壊したりしながら、素材の性質を見極め、時に相応しく造られる。
神のことばの整合性は主ご自身がなさることだから、今はすべてを知ることができなくても、やがて知ることになるのだ。
では、昨日人に伝えたことはどうなるのか・・もし、そのように心配をしながら、人が筋道を立てようとするなら、それは混ぜ物となる。みことばは極力人の知性を通さないことが良い。それは魂発だから・・。
そもそも神のことは、語った方にしか責任の取りようはないのであり、聞き間違いも含めて主に責任を取って貰うほかない。失敗ぐるみ主は私たちを用いてくださって居るのだ。
聖書を読むとき、みことばは水のようにさらさらと自分の中に流れ込み、通り過ぎるままにしている。それは私の霊の倉の中をも通って行くから・・。信頼するべきは自分の知性による理解ではなく、助け主によって働く霊の備えである。
常に豊かな流れを確保していたいけれど・・。それは霊の蓄えとなるのだから。
公義の水のように、正義をいつも水の流れる川のように、流れさせよ。(アモス5:24)
思いに引っかかったみことばは、そのとき、主に質問しておけば、必要なときに答えはみことばから与えられる。なるべくからっぽで待つのが良いと思う。空きっ腹に与えられる蜜の味は感動もので、それは目から鱗の喜びであり、思わぬ所で主にお出会いしたような感動を味わう時となるから・・。
わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。(イザヤ11:9)
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