私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。
ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。(ガラテヤ1:6~7)
十字架の恵みによって救われても、律法ののろいのもとに堕ちて行く事があると知った。
福音による救いは肉の目には見えず、普通は体にも覚えがないものである。ただ、霊によって導かれたことであるから・・。
しかし律法の行いは、頭にも体にも忘れられない記憶として残り続ける。パウロも、塵芥と捨てたものを愚かになって語ることができるのだ。
その行いの上に福音を積み上げるなら簡単に誘惑され、その信仰はひっくり返えされるだろう。人はただで受けた恵みよりも、支払った犠牲の方を強く覚えている。
律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。
私たちは、信仰により、御霊によって、義をいただく望みを熱心に抱いているのです。(ガラテヤ5:4~5)
救われたにも関わらず、キリストの恵みから落ちてしまうことがあると書かれてある。
だから御霊による熱心に拠って、義とされている望みに留まり続ける必要がある。それは古い記憶と新生した自分自身の戦いのようだけれど・・、御霊に拠っては簡単な選びである。
しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。
割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。(ガラテヤ6:14~15)
日々、新しく創造されてゆくなら、此処に古い記憶の入り込む隙はないのだから。
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