石ころ

聖霊によらなければ (マルコ3章)




 イエス様がマリヤの胎に来てくださり、人の家族として成長されることはどうしても必要であった。
いきなり人の罪に出会われたなら、人類はきっと滅びるほか無かったと思う。
家族というもっとも近しい関係の中で、愛と共に混ざっている罪を、成長に従って見て行かれたことで、罪人を愛する忍耐を学習してくださったのだと思うから・・。

キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、
完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、(ヘブル5:8~9)


キリストの苦しみは人の罪のゆえであり、罪ある者をも愛する忍耐であった。罪を知らない方にとって、これはどれほどの苦しみ悲しみであったことだろう。そのすべての罪を負って十字架であがなうまでに、御父に従順してくださったのだ。
  
そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。
イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。(マルコ3:9~10)


願いのままに押し寄せる人々を癒しながら、その不毛とも思える疲労の中で、集められた使徒はイエス様のなぐさめであり希望であったろう。
ユダが混じっていたけれど・・、まあ、この世には完全なものも純粋なものもない。それは天にしかないものだから・・。


 安息日の律法が「良い行い」さえも禁じていると、神の戒めを曲解させてしまった人たち。イエス様は、神のご意志から遠く離れて、すっかり形骸化した宗教を悲しまれたことだろう。
人は言葉を自分の都合に合わせて、何時でも曲げることができる者だから・・。

エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。(マルコ3:22)

サタンは人を貶めるとき「あいつはサタンだ・・、悪霊だ・・、魔女だ・・」そんなふうに言わせる。その時、人がその言葉に乗ってしまうのは、その心の中に願望があるからである。都合の悪い者を何の証拠もなく葬るに、これほど都合の良い言葉はないからである。

汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。
イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。(マルコ3:11)


汚れた霊がイエス様を告白することは赦されない。
イエス様の力がどこにあるのかを知るために、人は自分の中にあるもので計る。悪霊を宿すものは彼を語るだろうし、聖霊を宿す者は「主です」という。

聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。(Ⅰコリント12:3)

たとえイエスの家族であっても、聖霊によらなければ本当に主を知ることはできない。まして私たちは、主に拠らなければ家族の本当の姿を知り、その必要を満たしてあげることはできないのだ。

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