石ころ

主に留まる(ルカ22章)




 箱舟の中で、知恵を尽くして航路を模索する必要はない。箱舟に穴を開け、力を尽くして漕ぐことは危険である。
神によって置かれた所に、従順によって安息することこそ必要なのである。
此処で箱舟の外に心を奪われることは主に失礼である。

「わたしについて来てくれた」(新改訳)とイエス様から感謝された弟子は、自分からは何もしなかった。ただ、イエス様に従った者である。

 彼らが神のキリストと、主と崇める方が目の前で否定された。また、ベルゼブルだと言われ、不貞の子とか、気が狂っていると噂されても、弟子は黙ってイエス様に居たことに主が感謝されたのである。
彼らが横から口出ししたり、戦ったり、噂を消して歩いたわけではない。

主に在る者は、行って伝えるように命じられたことばを真っ直ぐに伝える。成すべき事はこれだけである。
その結果を見張る役割はなく、強要する権利もない。
すべてを裁くのは主である。主の忍耐されるときは、共に忍耐することが喜ばれることである。

あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。
だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。
あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。(ルカ22:28~30)


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