石ころ

十字架の計画 (ルカ23章)




 「ヘロデはイエスを見ると非常に喜んだ。」(ルカ23:8)この記述で、日本に置けるクリスマスを思い出した。何かがよく似ている。
ヘロデが喜んだものは手品師のわざであり、退屈を紛らわせる余興であったようだ。
イエス様は沈黙された。

 裁くピラトが「イエスに何の罪もない。」と公言しているのに、極刑である十字架刑がイエス様に処せられたことは奇跡のような出来事である。
裁判に置いては誤審はありうるけれど、それは裁く者が堅く罪を信じたから起こることであり、無実を信じての死罪はありえないことである。

そこにすべては神様のご計画と、イエス様の従順によることであると分かる。
「自分を救え」という大合唱の中で、イエス様は人の贖いのために屠られるべく、黙々と十字架に上がられたのである。

民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」
イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」(ルカ23:35~39)



 ユダに入ったサタンから起こったことのようであるが、神様がこの計画のためにユダにサタンを送ったのではない。
ユダは自らサタンを引き入れたのである。それは彼が偽り者(ヨハネ12:4~6)でありサタンと同質の者で、行いが悪かったからである。
ただ、そのような悪意の中にも、神様の良き計画が織り込まれ成就したということである。

 アリマタヤのヨセフはイエスに対する議会にひとり同意せず、十字架刑のあとでも遺体の引き取りをピラトに願った。それがどれほど勇気を必要とすることか・・弟子の様子を見ても分かることである。

彼は神様に祝福された人であった。彼の名はイエス様を葬ったという事実をもって、聖書にその名を刻まれるという栄誉を得た。
結果によって祝福されるのではない。祝福されているから結果に至るのである。

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