主に用いられる器は何処にでも転がっていて、ありふれた、もろい素焼きの土の器と決まっている。
土の器が、人手によって上薬を掛けられ、磨き上げられたならもはや主には使えない。
土の器の喜びは、主に渇いて縮んでできたひびや欠け、そこからは主が満たされたいのちの水が溢れ出て近づく者を潤すから・・。
その器はありふれてはいるけれど、人のほめ言葉に渇いたのではなく、主に渇いていたことがすべての始まり・・。
私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。(Ⅱコリント4:7)
燃えるくちびるも、心が悪いと、銀の上薬を塗った土の器のようだ。(箴言26:23)
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