サマリヤの女や、長血の女、取税人や、罪人たちが集まる、イエスさまの回りこそ霊的な礼拝の場所・・。それは神の家族の集まり。「わたしの母、わたしの兄弟」と主は言ってくださる。
誰も自分の中になんの良いものをも見出すことが出来ず、十字架の下にやって来た。「私の罪をお赦し許し下さい。こんな私を憐れんでください。」って・・
そこに集う人は、イエスさま以外全員罪人であり、だれも自分を救うことは出来ず、憐れで、悲しみを負っている。
教えを垂れる人は此処には居ない。なぜなら、みな自分を恥じて居り、誰も何も此処で差し出すものを持っては居ない。私たちの内には何の良いものもなくて・・。
なのにこの席では、嬉しそうに聖霊に酔い、みことばのパンをお腹いっぱい食し、大宴会をしているの。イエスさまがすでにすべてをあがなってくださり、赦されていることを知っているから。
嬉しく嬉しくてたまらないから喜んでいる。こんなに楽しいことは生まれて初めてだと!
イエスさまは素裸で十字架にかかって下さったのだと教わった。その主の十字架に重ねられた者が、イチジクの葉で身を覆っていることはなく、主と同じように裸であろう。
自分自身の裸を見る時、人は傷つく、目を覆いたくなる。
自身を探ってこの部分は良いけれど、これは覆って欲しいと分別したり、もう少しマシになってから・・と身をよじる。
愛する兄弟姉妹の裸の姿を見たときも、人は目を覆いたくなる。もう少しイエスさまに相応しくあってほしいと、人としてそんなにひどくあってはならないと。
ステンドグラスのチャペルに相応しく、楚々として清純な乙女のような姿を見たいのだ。でも、それこそパリサイ人なのに・・。それほど健全ならイエスさまは要らない。
聖書のイエスさまの周りにいた人は、癒しと赦しを必要とした人ばかりだった。
だからパリサイ人は、人として耐えられなかったのだろう。彼らの魂、感情が激しく否定したイエスの霊。魂は霊を否む。服従することを否んで激しく戦おうとする。それを治めることは簡単ではない。
私たちも同じ、そのような魂の働きを持っている。でも、その最悪の部分こそ、ぴったりと主の十字架を通して接着され、主の癒しを受けて変えられてゆくことに期待するほかないのに・・。
イエスさまは、家畜小屋の糞尿の匂いの中に来てくださった。最悪の私の中に来て下さった。人は逃げても、主は私の腐った部分に触れていて下さる。
そうして、滲みて来る主の聖さによって、みことばを生きている間に、ゆっくりゆっくりと主のものとされて行く・・そんな主の働きを知っているから、使用前の見本のように、曝されても取り繕うことなく居ることができる。
「ほら。見ていて御覧」って・・安心をして惨めな姿を見ればよい。ただ、いかにぴったりとイエスさまに繋がれているかそれだけが問題だけれど、主が繋がれたのだからもう安息して居ればよい。
人には善悪知識の木の実を食して以来、聖さというものが分からなくなった。魂が幅を利かせるようになり、霊の目が開かれたとはいえ、まだまだぼんやりとしか見えてはいないから、感情的であり、見た目の判断基準はとても幅を利かせているそれが事実。
でも、本当に聖いのは、イエスさまの回りに集まっている人々である。それは行いには拠らず選択に拠ること。見た目や人の評判ではなく居場所に拠ること。
主イエスと共に居るから聖いのである。今どのような姿であろうと、イエスさまといるなら聖なる神の家族なのである。
神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。(ピリピ3:3)
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