石ころ

光の中に (Ⅰヨハネ1章)




 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言(ことば)について。
この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです(Ⅰヨハネ1:1~2)

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。(ヨハネ1:1~3)

恐れることなく「イエスが愛された弟子」と公言し、イエス様の一番近くで愛を信じて疑わなかったヨハネならこその証言である。
「初め」とはすべてのものが造られる以前のこと、「命の言」である御子イエス様は、言葉によって御父と宇宙を創造された。

ヨハネは自分で経験したこと、目で見てそれもいつもじっと見て、手で触れて来たイエス様を「命の言」と証言した。
永遠のいのちとはイエス・キリストのことであり、十字架によって罪を購ってくださったと信じる者は永遠のいのちを賜る。それは聖書の証しである。だからこそ今も私たちは、みことばによって生きて働くキリストを経験することができるのである。

 神は光であり、神には闇が全くない。
わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。(Ⅰヨハネ1:5~6)


世にある光には必ず陰がある。神様の光は真上から注がれ陰はない。しかし人は、アダム以来罪が暴露されることを恐れ、光に来ようとはしない。
人が光の中に留まるためには、絶対的な赦しが前提条件である。すでに赦されていることを知ることによってのみ、光の中に留まることができるのだ。

罪とは造り主なる神に叛逆することである。人は、創造主から離れて自分の思うままに生きようとし、偶像の神々を自分の願いを叶えるために作り仕えさせるのである。

しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。(Ⅰヨハネ1:7)

完全な罪の清めを受け入れて影のない光の中に住む時、私たちは安心して受け入れ合うことができる。
「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」(使徒10:15)
相手に対しても自分に対しても、すでにイエス様によって罪が清められているということは、罪が無いということではなく、それはすでに処理されており、そのために互いに訴え合ったり責め合ったりする必要はなく、それが光の中の平和である。
神様の光の中に安息する者は光の子である。それはみことばと十字架の事実によることである。

光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。(ヨハネ1:5)新改訳

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