世に在っては、このことさえ終われば楽になれると思うことが、間違いであったと度々経験させられることがある。
何か新しいことを行うとき、問題は無限に現れて心身を疲弊させる。それらが外から来るものではなく、自分の心のうちから出て来るものだからである。
その度に私は「不信仰な私をお赦しください」と信仰を求めて主に叫ぶことになる。
昨夜、その祈りの直後に「信仰は求めるもの、平安は受け取るもの」という言葉がうちに広がった。「アーメン」と同意したとき、囚われていた恐れから一瞬に解放され、半時も置かずに取り越し苦労であったことが知らされた。
昨夜経験したことは何をするということではなく、自分の心をどうこうすることでもなく、聴いた言葉をそのまま受け取ることであった。
キリストが私を捕らえていてくださるという事実の中に、すべての解決が備えられてあった。
私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。(ピリピ3:12)